鶴見区
●二ツ池
 むかしむかし、獅子ケ谷と駒岡の間に、恐ろしい竜のすむ池がありました。ある時、一人の村人が池に石を投げると、怒った竜が池の底から現れ、大暴れをしてその村人を殺してしまいました。それからというもの、村人たちは竜をこわがり、ご機嫌をとろうと、毎年、村の娘をいけにえとしてささげることにしたのです。熊使いの蓑吉(みのきち)のいいなずけが、いけにえに選ばれた年のこと。恋人をわたすものかと蓑吉は十頭の熊を引き連れて池へ行き、わざと池に石を投げ込みました。すると怒った竜が姿を現し、嵐を呼んで、熊たちに襲いかかりました。熊たちも竜にかみつき、すさまじい死闘が続きました。嵐が静まった後、池には死に絶えた熊たちと息たえだえの竜の姿がありました。竜は最後の力をふりしぼり、天に昇ろうとしましたが、力つき、池の上に倒れ込んでしまったのです。そして、倒れた竜の体が堤となり、池は二つに分かれてしまいました。それ以来、この池は「二ツ池」と呼ばれるようになったということです。
●乳母いちょう
 江戸時代のこと、久志本というお侍の家に、男の子が生まれ、常勝と名付けられました。しかし、困ったことに、常勝の母親には乳が出ませんでした。代わりに乳をやってくれる乳母(うば)も見つからないまま、常勝はだんだんやせ細っていきました。この上は神仏にすがるしかないと、夫婦は常勝を連れ、近くの常倫寺に行き、「乳をお恵みください」と一心に祈りました。その後、夫婦が境内の大いちょうの下でひと休みしていると、空腹で元気のなかった常勝が、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らし始めました。驚いて二人が見ると、大いちょうの幹に乳房のように垂れ下がった枝から、白い液体がポタポタと垂れて、常勝の口に注いでいるではありませんか。「この乳は仏様からの授かりものだ」。夫婦は手を取り合って喜びました。常勝はいちょうの乳を飲んで、たくましく成長しました。この話はいつしか人々に広まり、常倫寺の大いちょうは「乳母いちょう」といわれるようになったということです。
●鶴見川の河童
 むかしむかし、鶴見川に99匹の河童(かっぱ)が住んでいました。なかでも次郎河童は「河童大将」と呼ばれ、川で遊ぶ子どもたちにイタズラをするのでした。ある夏のことです。生麦の北浜の桟橋で気持ちよく居眠りをしている次郎河童を、地元の漁師・太郎兵衛が追っ払いました。するとある日、川沿いを歩く太郎兵衛の前に次郎河童が現れて「この前は油断していた。今度は正々堂々と相撲で勝負しよう」と挑戦してきました。村でも力自慢で有名な太郎兵衛でしたから受けて立ちます。早速「ハッケヨイ」とばかりに相撲を取り始めました。しかし、太郎兵衛がいくら力を入れても次郎河童はびくともしません。そのうちに疲れ果てた太郎兵衛が尻餅をつくと、あれあれ?次郎河童とばかり思っていたものは、実は大きな松の木ではありませんか。そうです。河童の神通力(じんづうりき=何でも自由にできる能力)にだまされたのです。おかげで太郎兵衛は傷だらけになりました。幾日かが過ぎました。仕返しをしようと桟橋にでかけてみると、次郎河童がしたり顔でいるではありませんか。太郎兵衛は家から鰻鎌を持ってかけ戻るなり、次郎河童めがけて鎌を引っかけました。「ケッケッケッケ〜」次郎河童は大きな悲鳴をあげて川の中に消えてゆきました。家に帰った太郎兵衛は、得意になって家族にこの話をしました。すると、その話を聞いたおばあさんは「かわいそうなことをしたなぁ。二度と人の前に現れてはいけないよ」とばかりに、翌朝、河童の大好物のキュウリを川に流しました。それ以来、河童の姿を見かけなくなったということです。
●猫舌
 むかしむかし、毎月十五夜の満月の晩に、生麦のあるお寺に近郷近在の猫たちが集まりました。声自慢の猫は甚句(じんく=民謡のひとつ)を歌い、六角橋の猫は見事な太鼓の曲打ちをして、みんなで楽しくお祭りをしていたのでした。馬場村の宝蔵院の黒猫は横笛の名人でした。毎月欠かさず顔を出しては、みんなに得意の笛を聞かせました。ある九月のこと。中秋の名月の晩も、たくさんの猫が集まって賑やかにお祭りをしていました。しかし、宝蔵院の黒猫だけはしょんぼりしています。そこに居合わせた猫たちが心配して「どうしたんだい?宝蔵院の黒猫さん。今夜も得意の笛を聞かせておくれよ」と声をかけました。すると宝蔵院の黒猫は「今夜はだめだめ。実は夕飯が熱いおじや(雑炊)でね。今夜は祭りだからって慌てて食べたら、舌をヤケドしちゃって、笛が吹けなくなっちゃったんだよ」と言うではありませんか。それ以来、猫は熱いものを食べなくなったということです。
●身代り地蔵
 明治時代のこと、矢向村に孫兵衛という馬方(うまかた=馬で人や荷物を運ぶ職業)が、妻と子と3人家族で住んでいました。子どもの名は寅吉といいました。寅吉が12歳のとき、母親は流行病(はやりやまい=伝染病)で亡くなりました。小さな子どもを抱えた孫兵衛は、やむなく村人の世話で後妻を迎えました。ふた月ほど経つ頃になると継母は寅吉につらくあたるようになり、孫兵衛が仕事に出かけて家にいないときは目に余るほどでした。あるとき、継母は寅吉に大釜に水をいっぱい汲んでおくようにとザルを投げました。ザルでは水を汲めません。寅吉は自分の着物で小川の水をすくい、一生懸命大釜に運びましたが、継母は「おまえの垢の入った水は使えない」とばかりに、釜の水をひっくり返しました。次は桶で水を運ばせ、釜の水が煮えたぎったころ、いやがる寅吉を釜の中へ突き落としてしまいました。継母は、寅吉の亡骸を納屋に運んで、ムシロをかぶせておきました。夕暮れどき、帰ってきた孫兵衛の方を振り向くと、なんと孫兵衛の後ろに寅吉が立っているではありませんか。驚いた継母が納屋に駆け込んでムシロをめくりあげてみると、そこには寅吉ではなく、お湯で茹でられた木彫りの地蔵が横たわっていました。それを見た継母は、自分の犯した罪を悔いて、寅吉の身代りになった木彫りの地蔵を良忠寺に納めました。これが良忠寺の身代り地蔵ということです。
※出典「市民グラフヨコハマ第111号・民話の里」。一部、改編したところがあります。