保土ケ谷区
●境木地蔵
 むかしむかし、お地蔵様が鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)に波に揺られ揺られて打ち上げられました。あまりにも大きいので陸に引き揚げることもできず、浜にそのまま立てておくと、ある時大水が出て海へ押し流されていきました。何十年か経ったころ、今度は腰越(こしごえ)の浜に打ち上げられました。これを見つけた漁師たちは「また海に流されてはかわいそうだ」と村びと総出で引き上げて大切にまつりました。するとある夜、漁師の夢にお地蔵様が現れて「わしは江戸の方へ行きたい。牛車に乗せて動かなくなったところに置いて欲しい。そうしてくれたら、ここの海が決して荒れぬように守り大漁を約束しよう」というのです。夢から覚めた漁師が村の者に話してみると、俺も見た、私も同じだと皆がいうのです。これはお地蔵様のお告げに違いないと、腰越の漁師数百人がお地蔵様を牛車に乗せて早速江戸を目指して行きました。境木(さかいぎ)に行きかかると、押せども引けども牛車が動かなくなりました。さてはここがお告げの場所なのだろうと、お地蔵様を安置して漁師たちは帰っていきました。一方、不意にお地蔵様を置いていかれた境木の百姓たちはびっくり。薄気味悪いと思いながらも、大切におまつりしました。すると今度は、百姓たちの夢の中にお地蔵様が現れ「どんなものでもよいから雨露をしのげるお堂を建てて欲しい」というのです。そのとおりにお堂を建てたところ、見違えるように境木の辺りは賑やかになり、商家や茶屋などが建ち並び繁盛するようになったということです。
●せき止め菩薩
 むかしむかし、仏向(ぶっこう)の正福院というお寺の和尚さんが、仏向という地名の名付け親になったと伝えられるほど、和尚と村人たちには信心深いつながりがありました。お寺の本尊は「子育て観音」と呼ばれ、安産にたいそうご利益があり、出産する村の女性たちは、そのお守り札を大切にしてきました。この本尊に負けず劣らず人気のあったのが、薬師堂内の外記(がいき)菩薩でした。この菩薩には、子供たちが百日ぜきにかかったとき、その親が熱心に祈れば、せきを治してくれる不思議な力があると伝えられ、子供を思い、お守り札を求めにくる親たちが後を絶ちませんでした。そして、その願いがかなえられたときは、赤いずきんを奉納する習わしになっていたので、お寺にはたくさんの赤いずきんが奉納されたということです。
●弁天様の願い
 むかしむかし、東川島(ひがしかわしま)の正観寺の弁天様は、山に掘った横穴に納められていました。ある日、裏山のがけがくずれて、お宮もろとも埋まってしまいました。それから何十年も後、二、三人の村人がお寺に「弁天様の穴を掘ってもいいか」と相談に来ました。昨年の暮れから村人たちの夢に、三回も大蛇が出てきて、「自分は正観寺の弁天だが、穴がふさがったままで困っているので掘ってほしい」といったというのです。さっそく村人たちが穴を掘り出すと、大蛇は夢に出なくなりました。これをきっかけに、壊れたままだったお寺も再建されました。ところがその後、この近所に大蛇が現れ、家々を荒らすという出来事が続きました。これはきっと、穴は掘ったものの、弁天様を納めずにおいたままだったからだろうと、村人たちはお金を集めて、弁天堂を建てました。以後、大蛇が村を荒らすことはなくなったということです。
●子ども好きの道祖神
 むかしむかし、保土ケ谷の樹源寺の境内で大勢の子どもたちが我が物顔に遊んでいました。この日は特に荒っぽく、どこからか持ち出してきた一本の太い縄を、近くの石の道祖神の首にくくりつけ、かけ声もろとも引き倒したかと思うと、大騒ぎで引きずりまわしました。そこへ参詣に来合わせた近所のおばあさんはびっくり仰天。これはこれはアトの祟りが恐ろしいぞ!とばかりに、さんざん子どもたちを叱りとばし、道祖神をもとの場所に戻させました。怒られた子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。ところが、参詣を済ませて帰宅したおばあさんは、にわかに高熱を出して寝込んでしまいました。医者をよんでも薬を飲んでも効き目がありません。そこで占ってもらうと、道祖神の怒りにふれたことが原因だと分かり、「せっかく子ども相手に遊んでいたものを、お前がもっともらしく止めるとは何事だ。こののちも子どもを叱るようなら、お前の命はないぞ!」とお告げがありました。それを聞いたおばあさんの家族は、早速子どもたちを境内に集めて菓子や飴などを配り、叱ったことを詫びました。するとおばあさんの病気はたちまち治りました。それ以来、親たちは手放しで子どもを遊びにやるようになり、また石垣や木から落ちることがあっても決して怪我をしないなど、子どもをかわいがる道祖神として信仰を集めたということです。
●岩間原の北向地蔵
 暴れん坊将軍?で有名な徳川吉宗が治めていた頃、妻子連れのある回国巡礼の僧が岩間原(いわまっぱら)の辻にさしかかると、日が暮れてしまいました。この夜は月も星もない漆黒の闇夜でした。家の灯りも見えず、方向も見失って途方に暮れていると、目の前の闇の中から忽然と老僧が現れました。老僧の案内に従って行くと、保土ケ谷宿岩間の見光寺にたどり着くことができました。翌朝、巡礼僧は老僧にお礼を述べ、なぜ自分たちを迎えに来られたのかと尋ねました。老僧の正体は見光寺の住職で「夜の勤行を済ませて床についたところ、夢の中に地蔵菩薩様が現れて、妻子を伴う巡礼僧が道に迷って困っているから、早く助けに行くようにとお告げがあったからだ」というのでした。この話を聞いた巡礼僧は深く地蔵菩薩の徳に感じ入り、自分の一切の持ち物を寄進して、迷った道の辻に、見光寺のある北の方角に向けて石の地蔵を建立しました。その後、修繕などで地蔵の向きを変えたときでも、いつの間にか必ず北に向きなおっているので、北向地蔵と呼ばれるようになったということです。
●棟木になった御神木
 江戸で芝居が流行っていたころ、大きな芝居小屋を建てることになり、その棟木にする適当な大木が見あたらないというので、江戸をはじめ近郷近在の大木が物色されました。いろいろ探し回ったあげく、ついに星川(ほしかわ)の杉山神社の御神木が候補にあげられました。その木は樹齢数百年の大きな檜で御神木として古くから崇められていたものです。しかし、神社の別当を務めていた寺の住職が「金はいくらでも出す」という話に目がくらみ、二つ返事で売り渡しを約束したのでした。翌日には大勢の木こりの手により無惨に切り倒され、帷子(かたびら)川から海づたいに江戸へ運ばれたのでした。大金を手にして大喜びをしたのもつかの間、その晩からというもの、木を切る音、倒れる音、悲鳴のような叫び声など、耳を覆っても聞こえる怪音が住職に毎晩襲いかかるのでした。夢にも御神木の怨霊が現れ、ついに住職は病に伏せってしまいました。一方、完成した芝居小屋ではこけら落としの興業が催されました。すると舞台に登場した四代目団之助という役者が突然発狂し、大声で「われは杉山宮の神木なり、ああら恨めしや、口惜しや」と叫んだかと思いきや、目を吊り上げて狂い死んでしまいました。これに驚いた芝居小屋関係者は、早々に神社へ使いをたて、神木の切り取ったあとをねんごろに弔い、跡継ぎの木を植えました。おかげでその後何も起こらなかったということです。
●大蛇を祀る弁天社
 むかしむかし、暑い夏の真っ盛りのことでした。暴れまわっては村人を困らせていた大蛇が材木置場で昼寝をしていました。そこに来合わせた猟師が鉄砲で撃ったところ、大蛇のど真ん中に命中し、頭の方は川島に、しっぽの方は白根(しらね)に、真っ二つにちょんぎれてしまいました。祟りを恐れた村人たちは社を建てて大蛇をまつりました。それで、川島の弁天社のご神体は大蛇の上半身なのだということです。また別の話では、川島の猪子山に「猪子(いのこ)」と呼ばれるトノサマガエル、ヒキガエル、イボガエルなどの大蛙がたくさん住んでいました。ある年、帷子川が氾濫し大洪水になりました。上流から大蛇が流れてきて、猪子山に棲みつき、そこの猪子をすべて食べてしまいました。懲らしめてやろうと考えた村人は、津久井(つくい)の荻野村の十兵衛という猟師に頼んで鉄砲で撃ち殺してしまいました。しとめた大蛇を半分に切り、頭を川島に、しっぽを新井新田(あらいしんでん)に持ち帰り、それぞれ弁天様として祀ったということです。
●後ろを向いた天王様
 天王様と呼ばれる橘樹(たちばな)神社は、その昔、仏向村浅間宝寺の鎮守でしたが、平家の落人をかくまったという罪で打ち壊しとなりました。このときご神体は寺の本尊とともに手にかかるのを潔しとせず、いきなり帷子川へ飛び込んで兵火を逃れました。折から帷子橋を通りかかった三人の百姓が川の中をのぞき込むと紫金の光明が流れてきました。引き上げてみるとそれは紛れもないご神体でした。その夜「われは牛頭天王(ごずてんのう)なり、ここへ祀らばたちまち御利益あるべし」という、三人とも同じ夢を見ました。早速、氏神として宮を建て、ご神体を拝もうとしたところ、光明がまぶしすぎて拝むことができません。そこで正面から拝むことができないならばと、後ろ向きに安置することになりました。それ以来、参拝するときは宮の後ろにまわって、ご神体の真正面から壁越しにお参りする習いとなったということです。
●保土ケ谷っ子の喧嘩
 天明の頃、江戸っ子も一目置くほど保土ケ谷っ子は気が荒いといわれていました。ある日、保土ケ谷へ来た江戸の火消しが喧嘩を売られ、ひどくやられて江戸へ逃げ帰りました。江戸っ子も短気で鼻息が荒いから「このままじゃあ面目がたたねえ」と40人ほどが徒党を組んで保土ケ谷へ殴り込みました。さすがの保土ケ谷っ子も分が悪いと詫びを入れ、仲直りの宴で江戸っ子をもてなしました。これが「堪忍五両、負けて三両」のはじまりといいます。さて、酒と肴が運ばれて、なますのふたを開けてみるとビックリ、中にはピンピンした蛙がはねまわっているではありませんか。それを保土ケ谷っ子はムシャムシャうまそうに食べてしまいました。これには江戸っ子も2度ビックリ。度肝を抜かれて江戸へ逃げ帰ったということです。
※出典「市民グラフヨコハマ第111号・民話の里」。一部、改編したところがあります。