栄  区
●いたち川とカッパ
 むかしむかし、小菅谷を流れるいたち川は「出立川」と書きました。出立川のほとりには宿駅があり、鎌倉から各地へ向かう道の分岐点になっていました。鎌倉時代のお侍たちが、戦に出発し、帰って来る大事な場所でもあったのです。というわけで、この川は「出立川」、そして宿駅の近くに架かる橋は「帰り橋」と呼ばれていました。しかし、鎌倉幕府が滅びると、一帯はだんだんさびれていきました。それこそイタチやタヌキにしか出会わなくなったからなのか、川と橋の名もいつしか「いたち川」と「海里橋」に変わってしまったのです。そんなのんびりした時代のこと。夏になると子供たちは、海里橋の少し上流の城(白)山ぜきという用水路で、よく泳いでいました。が、深みにはまっておぼれることもあり、親たちを心配させていました。するといつしか「城山ぜきにはカッパがいて、人間の尻子玉を抜く」といううわさが広まりました。「そんなのウソだい」といいながらも子供たちはだんだん城山ぜきに近づかなくなったということです。
●素焼きの茶わん
 むかしむかし、江戸時代のはじめごろ、中野の長慶寺に、将軍・徳川家康が立ち寄りました。近くにタカ狩りに来て、のどが渇いたので「水を飲ませてほしい」というのです。和尚が、この寺には粗末な茶わんしかないと断ると、家康公は「器はどうでもよい」というので、和尚は素焼きの茶わんに、裏山に流れる清水をくんで差し出しました。たいそう喜んだ家康公は、和尚に「立派な人物とお見受けするが、なぜ、このような寺にいるのか?」と聞きました。宗派を守るための戦に出かけている間に、寺が荒れ果てたことを和尚が話すと、家康公は、しばらくして和尚を江戸城に呼び、「ぜひ寺を再建するように」とたくさんのお金とともに白磁の茶わんを授けました。和尚は喜び、寺を再建し、立派なお堂をつくりました。また、家康公に頂いた白磁の茶わんは、寺の宝物として今でも大切にしているということです。
※出典「市民グラフヨコハマ第111号・民話の里」。一部、改編したところがあります。