瀬谷区
●知恵授けのおせっさま
 むかしむかし、境川の深見(今の大和市)に、信心深い中丸左源太という人が住んでいました。ある夜、左源太の夢に仏様が出てきて、こういいました。「左源太よ、私は世に出て仏の知恵を授けたい。土の中から掘り出しておくれ」。夜が明けて、左源太が夢のお告げのあった場所を掘り返すと、土の中から金色の仏像が出てきました。左源太は仏像をきれいに洗い清め、村のほこらにおまつりしました。これが、勢至菩薩です。それからしばらくすると、また左源太は仏様の夢を見ました。「私はもっと多くの人に知恵を授けたい。私と一緒に、ほかの村々を回っておくれ」。左源太はほこらの勢至菩薩を厨子(ずし)に納め、それを背負って各地を巡り、仏の教えを広めました。その後、勢至菩薩は、南瀬谷・全通院の勢至堂に安置され、「知恵授けのおせっさま(御勢至様)」と呼ばれ、多くの人々に慕われたということです。
●恋しがる鐘
 むかしむかし、瀬谷に力持ちで知られる人がいました。名前は山田伊賀守入道といい、碁が好きで、恩田村(青葉区)万年寺の和尚を誘っては、毎日のように碁を打っていました。この二人が碁を打つと宗教談議に花が咲きます。それというのも、二人は宗派が違うためで、あるとき、あまり談議に熱が入るので、碁をやめて法論で勝負をつけようということになりました。「わしは、鎧・兜と大小の刀を賭けるぞ」と入道がいうと、和尚も負けじと「私は寺の釣り鐘と半鐘にしよう」といいました。長い問答が行われた末、入道の問いに和尚がつまり、勝負がつきました。勝った入道は約束通り、万年寺からつり鐘と半鐘を持ち出し、ぼだい寺である瀬谷の妙光寺に贈りました。ところが、いくら鐘をついてもいい音がしません。いい音を出そうと、和尚を呼んで供養をしてもだめなのです。まるで恩田村を恋しがるかのように「ゴオーンダ、ゴオンダ」とさみしげに響いたということです。
●欲深じいと栗のイガ
 むかしむかし、瀬谷に欲の深いおじいさんがいました。村人たちは、その欲の深さと意地悪にホトホト手を焼いていました。稲の穂が出始めるころのことです。欲深じいの家の前で、村人が大声で話をしていました。「隣村の人の話に聞いたんだが、稲の穂が出たら、栗のイガを田んぼにまけば、いい肥料になって、稲穂がよく実るんだと」「そりゃあ、いい話を聞いた。さっそく山へ行って栗のイガを取ってきて、田んぼにまくことにしよう」。それを聞いた欲深じいは、朝早く起きて、村人のだれよりも早く山へ行き、木の下に落ちた栗のイガはもちろん、木になっている青い栗まで、そのほとんどを採り尽し、自分の田んぼへまきました。それからひと月ほどが過ぎ、稲刈りのころを迎えました。大豊作に喜び勇んで稲刈りに来た欲深じいが、田んぼに足を踏み入れた途端。「ぎゃあ〜〜!いて、いててててえ〜」と大声で叫び、転げるように飛び出しました。あの時まいた栗のイガが、欲深じいの足に刺さって、足の裏はまるで針ネズミのようです。実は栗のイガは焼いて灰にしてからまかなければいけないのですが、いつも欲深じいに迷惑していた村人は、このことをわざと言わなかったのです。これに懲りた欲深じいは、決して村人たちに欲深いまねや意地悪をしなくなったということです。
●権兵衛狸の恩がえし
 むかしむかし、二ツ橋村の狐山にのんびりやで化け方が下手な権兵衛狸がすんでいました。いつも仲間はずれの権兵衛狸は、お百姓の弥治右衛門に食べ物をもらっていました。夜になると、名主の源兵衛の声色で弥治右衛門さんを呼んで、雨戸をたたきます。弥治右衛門が名主さんだと思って戸を開けると、だれも見あたらず、権兵衛狸が逃げていくのが見えます。こんなことを繰り返しているうちに、いつしか互いに仲良しになりました。 あるとき、権兵衛狸はしっぼをぶんぶん振って、大きな声で「弥治右衛門さん、弥治右衛門さ−ん!」と雨戸をたたきました。いつもと違う様子に跳び出してみると、家の裏が火事です。弥治右衛門は近所に火事を知らせて、消し止めることができ、ますます仲良しになりました。やがて、弥治右衛門も年を取り、病の床につきました。息を引取る間際、息子の広太郎に友達の権兵衛狸のことを頼みました。広太郎は遺言を守って権兵衛狸を大切にし、前と変わらぬ交流が続きました。そんなある日、権兵衛狸は里の火事に気が付き、急いで広太郎の家に走りましたが、家はすでに火に包まれていました。権兵衛狸は火の中に跳び込むと、弥治右衛門の位牌をおなかに抱え、そのまま倒れて息絶えました。健気な権兵衛狸のことは、「動物ながらりっぱな恩がえしをするものよ」と里人に、ながく語り伝えられたということです。
●石になった比丘尼
 むかしむかし、家もまばらな上瀬谷の里へ一人の比丘尼(びくに=女の僧侶)がやってきました。名を明光(みょうこう)といい、里に庵(いおり)をむすび、相談にのったり、仏の教えを説いたりして、里人に親しまれるようになりました。比丘尼は病があるのか、話しながらよく苦しそうに咳きこみました。すると決まって里人は咳に効くというお茶を竹筒に入れて比丘尼に持っていきました。ある日、里の人たちが庵を訪ねると、比丘尼の姿が見えず、仏前の敷物に墨染(すみぞめ)の衣を着た大きな石が一つあるだけでした。「明光尼様が石になった!」と驚いた里の人たちも、やがて悟り、以来、この石に願をかけると咳がなおるといって、多くの人の参詣が絶えませんでした。里人は病がなおるとそのお礼にお茶を竹筒に入れてお供えしたということです。
●大晦日の灯火
 むかしむかし、瀬谷村に住む母と息子の二人暮らしの家に嫁を迎えました。若い嫁にとって初めての大晦日の夜、「かまどの火を明日の朝まで消さないように番をしなさい。その火で元旦の料理を作るのがこの家の決まりだから」と姑は嫁にいいおいて寝てしまいました。嫁はいいつけのとおり、かまどの火を絶やさないようにしていましたが、ついつい眠り込み、気が付いたときには火も消え灰だけになっていました。慌てた嫁は家を飛び出し「燈々無尽(とうとうむじん)お助けください」と維摩経の仏語を一心に唱えました。すると、闇の向こうから、ジャランポワンと鉦の音を響かせ、葬列の灯が近づいてきます。「どうか提灯の火を一つ貸してください」と無我夢中で嫁が頼むと、葬列の男は「火だけを貸すわけにはいかないから、葬式ごと預かってくれ」というのです。縁起でもないけれど、今は何より火が大事と考えた嫁は、葬式一切を納屋に預かりました。おかげで、かまどに火を分けて元旦を迎えることができました。そのことを起きてきた夫に一部始終打ち明けました。すると夫は「それほどまでに家を大切に思ってくれたのか」と嫁をねぎらい、「しかし葬式を粗末に扱っては申し訳ない。ねんごろにお弔いをしよう」と二人で納屋に行き、お棺のふたを開けてみると、その中には金や銀の大判小判がまばゆいばかりに輝いているではありませんか。それからのち一家は末長く幸せに暮らしたということです。
●鎌取池
 むかしむかし、三ツ境にあった阿久和川の源流の池に若者が草刈りにやってきました。昼時になり、木陰でウトウトしていると、池のほとりに美しい娘がたたずんでいることに気づきました。娘があまりに悲しそうな顔をしているのでたずねてみると、「私はこの辺りに住む者です。あなたのように熱心に草刈りをされると、私たちの住むところがなくなってしまいます。お願いですから、あなたの草刈り鎌を預からせてください」と涙ながらに哀願するのでした。夢心地の中で若者はいわれるままに鎌を娘に差し出すと、娘は大事そうに鎌を胸に抱いたまま、スーっと姿をかき消してしまいました。後には一筋の水の流れと光るウロコが残っているだけでした。娘はこの池に住む大蛇の化身だったのです。若者が村に帰って、この話をすると「おれもあの池で鎌を取られた」と口々にいうではありませんか。それからこの池を鎌取池と呼ぶようになったということです。
●東野のでえーがみさま
 むかしむかし、東野に仲のよい百姓夫婦が住んでいました。この働き者の夫婦に子が授かりましたが、なぜか女房の乳が出ませんでした。毎日「お乳が出ますように」と神仏に祈っていたところ、あるとき東野の大銀杏の根本からこんこんと湧く泉を見つけました。亭主は「この水で粥を炊いて女房に食べさせたら、御利益があるかもしれない」と考え、清水を持ち帰り、さっそく粥を炊いて女房に食べさせました。すると不思議なことに、今まで一滴も出なかったお乳が出始めたのです。以来、夫婦は泉を乳出神様(でえーがみさま)としておまつりし大切にしました。いつしか、この話が伝わり、近郷近在から乳のでない母親の参詣が絶えなかったということです。
●橋戸の雨乞い
 むかしむかし、日照りが続いたとき、橋戸の村では、村人総出で雨乞いの相談をしました。「わらで大きな竜をつくり川の竜神さまにお供えしよう」「大山阿夫利神社の雨降らしの水を頂戴して祈ろう」「いっそのこと、両方やれば効果があるに違いない」と話がまとまりました。足の速い若者を募り、大山阿夫利神社に向かわせ、村まで休みなく走らせて水を持ち帰らせました。途中足を止めてしまうとそこで雨が降ってしまうからです。村の回向橋下の川に青竹を立てて巻き付けておいた、わらで作った大きな竜に、雨降らしの水を頭からかけて、西福寺の半鐘を鳴らし、村人みんなで「六根清浄、雨降らせ」の願文を唱えました。そして、小さな千匹の竜になぞらえたわらを川に流した途端、これまで晴れ渡っていた空が、一天にわかにかき曇ったかと思いきや、雷とともに大粒の雨が降ってきたということです。
●八ツ塚の狐
 むかしむかし、瀬谷村と上川井村の境の八ツ塚(やつづか)と呼ばれる辺りに狐が出て人に悪さをしたそうです。八ツ塚は室町時代の古戦場跡で討ち死にした武士や行き倒れを葬ったと言い伝えられる昼なお寂しいところでした。上川井村から瀬谷村に嫁に来て、お産のために里帰りし、無事、男の子が生まれたと実家から知らせが届きました。これを聞いたお舅さんは初孫のお七夜祝いに出かけました。孫の顔を見て、ご馳走になるうちについつい遅くなってしまいました。止めるのも聞かずに嫁の実家を出て八ツ塚にさしかかる頃には日もとっぷりと暮れました。折しも雪が降り始め、提灯の明かりも思うように先を見通せません。早く通り抜けようとあせればあせるほど道に迷い、また同じ場所にたどり着くありさまです。足をいたわりながらふと顔を上げると、遠くに家の灯りらしきものが見えました。「助かった」と安心した途端、後ろから背中をドンと突かれ、川にドボンと落ちてしまいました。運良く通りかかった村人に助けられ、なんとか家にたどり着くことができました。お舅さんは家の者にこの奇妙な話しをしました。すると、「それは狐の仕業に違いない。八ツ塚で狐を見たという者もおるし、変な目にあったっていう話もよく聞いておる。あそこを通るときは火のついた線香を持っていくか、だまされそうになったときは煙草を一服するといいそうじゃ」と年寄りがいいました。翌朝、お舅さんはお嫁さんの実家からもらった重箱の風呂敷包と酒瓶がないことに気がつきました。家の者と手分けをして探しましたが、見つけたのは雪の上一面にある狐の足跡だけだったということです。
●頭巾かぶりの藤兵衛さん
 むかしむかし、相沢村の名主は代々「藤兵衛」を名のっていました。何代目かの藤兵衛さんは非常に寒がりの人で一年中頭巾を被っていました。ある年、年貢米を領地の殿様がいる江戸屋敷に運ぶ役目を仰せつかりました。このときばかりは頭巾をとらなくてはなるまいと観念した藤兵衛さんでした。江戸屋敷に着き、ご機嫌伺いをした藤兵衛さんに向かい、怪訝に思った殿様が「ご苦労だった。しても藤兵衛、どうも顔色がよくないようだが、いかがした?」とたずねました。すると藤兵衛は「私は根っからの寒がりで、普段は頭巾を被っているのですが、お殿様の御前で無礼があってはいけないと頭巾をとりましたところ、急に体の具合がよくないようです」と答えました。これを聞いたお殿様は「それはいかん。役目柄からだを大切にしなさい。今後は私の前でも頭巾を被ったままでもよい」とお許しを与えました。それ以来、藤兵衛さんは殿様の信頼に応えようと名主としての勤めに精を出し、近郷近在から「頭巾かぶりの藤兵衛さん」と呼ばれるほど有名になりました。寒がりの子どもがなかなか布団から出てこないとき、「頭巾かぶりの藤兵衛さん」と囃すのは、この話から出たものだということです。
●八朔の祈祷師
 むかしむかし、瀬谷に繭買いのおとらさんが住んでいました。良質の繭は八王子や町田の商人が買いつけていきましたが、おとらさんの買う繭は「ぐちゃ繭」という規格外のクズ繭でした。それでも地織が作れるので、おとらさんは冬でも裸足でせっせと繭買いにいきました。働き者で元気なおとらさんでしたが、あるとき、足や腰が痛み出し、思うように繭買いに行けないようになりました。そこで村でも物知りといわれる人から「八朔(はっさく)の祈祷師に見てもらうのがよい」と教えられました。さっそく、おとらさんはいくつもの山を越え丘を越えて八朔の祈祷師の家へ行ってみました。しかし、祈祷師の家に着いたのが早朝だったせいもあり、人の気配がありませんでした。薄暗がりの庭に入り、戸締まりのしてある雨戸の隙間から家の中を覗いてみました。すると、暗闇の中から目玉みたいなものがいくつも光り、今にも飛びかかってくるような様子に、おとらさんはビックリ。狐に取りつかれてはかなわんと、一目散で家に逃げ帰りました。するとあら不思議、いままで思いどおりにならなかった足も腰の痛みもすっかりなくなってしまいました。それ以来繭買いに出かけたおとらさんは「八朔の祈祷師は何もしないで足腰を治した」といってまわったということです。
●阿久和の善光寺
 むかしむかし、全国を説教念仏をしながら旅を続けるお坊さんが信濃国の諏訪大社の辺りの村々をまわり終えて、甲斐国に入ろうというころ、二匹の蛇が仲よくついてくるのに気がつきました。聞いてみると「私たちは諏訪明神にお仕えしていましたが、お坊さまの話を聞くうちに、弟子になりたいと思ってついてきました」というではありませんか。お坊さんはその願いを聞き入れ、二匹の蛇とともに長い旅を続けました。相模国の阿久和の里まで来たところ、一匹の蛇が病を得て死んでしまいました。そののち、藤沢に遊行寺を建て、時宗の開祖として一遍上人と呼ばれたのがこのお坊さんでした。お上人となっても気がかりだったのは、阿久和で死んだお供の蛇のことでした。そこで、阿久和の丘にお堂を建て、善光寺と名づけ、一寸八分の阿弥陀様を本尊として、蛇とともに阿久和の先人たちの霊を慰めました。戦国時代となり、阿久和の里も戦火に巻き込まれるようになると、村の谷の奥に洞穴を掘り、本尊や一遍上人ゆかりの宝物を隠し、村人は命からがら藤沢の本山へ逃れました。その後、時が移り、善光寺は再興されませんでした。今でも洞穴の中から「世の中が平和なら早くここから出しなさい。みなさんとお話がしたい」というかのように木魚のポクポクという音が聞こえてくるということです。
※出典「市民グラフヨコハマ第111号・民話の里」。一部、改編したところがあります。