鶴 見 區

■矢向町 ヤカウチヤウ   世帯数 九二〇   人口 四、三二二
  元は矢向村と称して橘樹郡の内なり。中古郷庄の名は唱へざれども小田原役帳には「稲毛矢向一貫五百文の地を太田大膳亮領す」とありて稲毛庄に隷せしと見ゆ。町内最願寺の鐘に「橘樹郡稲毛庄矢向郷」とあり。是れ寶永七年の銘なり。されば此頃は猶庄名を伝へたる事と知らる。徳川氏江戸入国の後は御料地なりしが正保の頃村高五百四十三石一斗二升一合五勺を御料及び旗本松波十右衛門入会知行し、更に其後新見出羽守の知行も入会せり。横浜開港の頃には松波、新見の外浅草誓願寺領も加はり居れり。明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村市場、菅澤、潮田、小野新田、江ケ崎、小田村飛地と合併して町田村大字矢向となる。大正十二年四月一日に潮田町と改称、更に大正十四年四月一日鶴見町に合併して鶴見町と改称、大字矢向と称すること元の如し。昭和二年四月一日横浜市に編入、旧村名を採りて矢向町と改む。町名の起りは武蔵風土記の記すところによれば「村の開けし年歴は詳にせざれど、此地にたてたる良忠寺は弘安元年草創せし寺といへり。さもあれば此頃既に開けしなるべし。思ふに此村名も矢上矢向と同じ時、名をおひて矢口より出でたるならん」とあり。
  ★地元では、むかし最願寺の祐源上人が夜中光明の輝く所を訪ねて行くと光り輝く白衣の観音を見つけ、それを山王権現に祀ったことから、「夜光村」と称えたという。その後の伝説で、新田義貞が矢口の渡しの戦いで、日頃念ずる地蔵菩薩の名号を書いた矢を射ると、その矢は川崎の塚越を越えて、この地に飛び、老松に刺さり、それを矢止めの松というようになって、その下に矢止め地蔵を祀った。それから「夜光」を「矢向」と呼ぶようになったともいう。新田義貞は、元弘三年五月に鶴見の付近で金沢貞将の軍を破った。地名研究で「矢向」とは「川口(川の合流する所)」の意味という。

■江ケ崎町 エガサキチヤウ   世帯数 四一   人口 二四〇
  元は江ケ崎村と称し橘樹郡の内なり。伝ふるところによれば往昔は稲毛領にて矢向と一村なりしが、いつの頃か川崎領となり矢向と分かれしと云ふ。村高百七十四石九斗は徳川氏江戸入国の後旗本松下某に賜はり、明治維新に至るまで其子孫の知行所たり。明治に居たり神奈川県の管轄となる。市町村制施行の際隣村市場村、矢向村、潮田村、菅澤村、小野新田及び小田村飛地と合併して町田村大字江ケ崎となる。大正十二年四月一日潮田町と改称、大正十四年四月一日の鶴見町に合併鶴見町となる。大字江ケ崎は元の如し。昭和二年四月一日横浜市に編入旧村名を採りて町名とす。村名の起りは武藏風土記の記すところに依れば「土人の伝へに往古此村は矢向と一村なりしと、名義の起りを尋ぬるに矢向は村の形鏡の如く圓く、此村は彼の鏡の柄の如くなる處なれば柄ケ崎と名付しといえば、柄を江と書きかへたるにや覚束なき説なり」と載せたり。
  ★地名研究で「江ケ崎」とは「川に面した所」の意味という。

■市場町 イチバチヤウ   世帯数 二、〇四七   人口 一〇、二四九
  元は市場村と称し橘樹郡の内なり。往古民家は村の北西にありたるに、東海道の開けしより今の地に移りしとの伝へありて、元屋敷と唱ふる處あるはこれに因てなりと云へり。徳川氏江戸入国後は御料所なり。元禄の始め村高七百二十七石七斗四升六合五勺の内、四十石余の地を割き旗本木造金彌に賜ひしが幾程もなく復御料所となり、明治維新に及びて神奈川県の管轄となれり。市町村制施行の際隣村菅澤村、潮田村、矢向村、江ケ崎村、小野新田及び小田村飛地と合併して町田村大字市場となる。大正十四年四月一日鶴見町に合併鶴見町となる。大字市場は元の如し。昭和二年四月一日横浜市に編入、旧村名を採りて町名とす。町名の起りは、同町鎮守熊野神社の縁起によれば往昔此辺り海辺にて漁塩豊富なるより、天文の頃魚介の市場を開きしより村名とせしと云ふ。
  ★豊田武の『中世日本商業史の研究』は、応安四年武蔵国鶴見郷内に新市があったことを明らかにした。

■菅澤町 スガサワチヤウ   世帯数 四八六   人口 二、四三〇
  元は菅澤村と称し橘樹郡の内なり。村高二百十石九斗三升一合、徳川氏江戸入国以来御料所たりしが、明治維新後神奈川県の管轄となれり。市町村制施行の際隣村市場村、潮田村、小野新田、矢向村、江ケ崎村及び小田村飛地と合併して町田村大字菅澤となる。大正十二年四月一日に潮田町と改称、更に大正十四年四月一日鶴見町に合併し鶴見町となる。大字菅澤は元の如し。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。
  ★地名研究で「菅沢」とは「鶴見川沿いの沢でカヤツリグサ科の多年草、菅の生えている所」を意味するという。

■平安町 ヘイアンチヤウ   世帯数 四二二   人口 二、一二五
  元川崎市の田島と潮田町に接する地域にて、其大部は菅澤町の地内なりしを、大正十五年頃区画整理の結果新濱町と称し、一・二丁目を設けたり。昭和二年四月一日濱市に編入して今の町名に改む。即ち縁起を祝ひて名付く。
  ★「平安」の由来は明かでないが、川崎市の「京町」と関連して名付けたと考えられる。

■潮田町 ウシホダチヤウ   世帯数 一〇、一九九   人口 五二、六九六
  元は潮田村と称して橘樹郡の内なり。往昔は丸子庄なりしとも伝へもあり、又小田原役帳には小机の内とある。武藏風土記に当村開墾の年代は伝へず、禄の頃は太田新六郎康資が知行十二貫文その外十六貫八百五十四文当所の内地頭方と役帳にあり、又向山某が知行三十四貫百十七文の由しるせり。徳川氏江戸入国後村高八百九十八石一斗二升九合五勺は正保の頃には松下孫十郎の知るところにして寶永四年に至り、海岸堤の修復等自力に及ばざりしを憂ひ公に願ひ奉り同郡小倉村にて替地を給ひしと云ふ。後伊奈半左衛門預り奉り云々とあり、明治維新後神奈川県の管轄となる。市町村制施行の際隣村市場村、菅澤村、小野新田、江ケ崎村、矢向村及び小田村飛地と合併し町田村大字潮田となる。大正十二年四月一日潮田町と改称、更に鶴見町に合併して鶴見町となる。大字潮田は元の如し。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。
  ★地名研究で「潮田」とは「海水の入ってくる田」、「海水の来る所」の意味という。

■安善町 アンゼンチヤウ   世帯数 一〇〇   人口 五〇六
  大正五年の頃東京灣埋立會社の埋立し地にて淺野總一郎の計画による處と云ふ。淺野氏は安田善次郎と湾内の実地踏査を行ひ、埋立の有望なるを説き、安田氏より資金の調達をうけ、為めによく完成を見るに至れりとて町名を付するにあたり、安田氏の名を採りて付すと云ふ。一、二丁目を置く。昭和二年四月一日濱市に編入せり。
  ★安田善次郎は、明治・大正の銀行家・実業家で、安田財閥の創設者。浅野総一郎の諸事業に積極的に融資し、埋立築港などの事業を行った。死後に東京大学安田講堂を寄付。

■末廣町 スエヒロチヤウ   世帯数 二四   人口 二七〇
  東京灣埋立會社が大正三・四年の頃、橘樹郡町田村小野新田地先水面六万九千九百十三坪四合八勺を埋立て、大正五年十月十五日これを町田村の区域とし末廣町の字名を付す。大正十二年四月一日潮田町と改称。同十四年四月一日鶴見町に合併して鶴見町大字末廣町となり、昭和二年四月一日濱市に編入字名を採りて町名とし一・二丁目を置く。町名末廣は同社々長淺野總一郎氏の家紋末廣から採り且つ縁起を祝ふて名付く。

■小野町 オノチヤウ   世帯数 四七九  人口 二、四六六
  明治の初め小野重行氏の祖父の埋立し地なるより小野新田と称せり。市町村制施行の際隣村市場村、菅澤村、潮田村、矢向村、江ケ崎村及び小田村飛地と合併し町田村大字小野となる。大正十二年四月一日潮田町と改称、更に大正十四年鶴見町に合併して鶴見町と改称、大字小野と称すること元の如し。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。

■鶴見町 ツルミチヤウ   世帯数 四、三一四   人口 二〇、三八七
  元は鶴見町と称して橘樹郡の内なり。村名の起りを詳にせざれど史伝に徴するに、東鏡仁治二年十一月四日の條に「今朝将軍家為武藏野開発御方違、渡御干秋田城介義景武藏國鶴見別荘」云々とあり又武藏風土記にもこの事を載せて曰く「此将軍家といへるは則頼經なり、此頃秋田城介が別荘此地にありしと見ゆれど今その古き跡も伝へざれど、此鶴見の名古き事を知るべし、それも昔の事なれば別に此名ををひし地名もありしにやさだめがたし」又梅松論に「元弘三年五月北條高時の弟左近将監入道惠性を大将として武藏國に発向せし時、下總國より千葉介貞、新田義貞に同心の義ありて責上る間、武藏の鶴見の辺に於て相戦けるが是もうちまけて引退く」と云。又建武三年の文書に、「子息五郎義直、六郎義冬軍忠之事」云々、文の末に「建武三年九月二十八日」とあり、按に佐竹家譜にも佐竹常陸介貞義が五男五郎義直この日武藏國鶴見合戦に討死せしよし載す。又正平七年の文書に左の如く載す。

    永野平太致秋申軍忠事
  右自最前馳參御方去月十九日自武州鶴見宿地參關戸同廿三日三浦入御時令供奉同廿八日鎌倉合戦致軍忠候畢其後至平塚宿令御炎上者賜御判為備後證言上如件

按に此頃も鶴見の宿といひてすべて宿場なりしことまた見るべし。又鶴岡の文書に鶴見郷の名見ゆ其文に。

  送進
  鶴岡八幡宮干放生會料用途事
   合拾二貫文者
  右當社御領武藏國鶴見ク分所送進之状如件
   延久三年八月十四日
  檢納
  鶴岡八幡宮寺御放生會御神事料足用途事
   合拾二貫文者
  右當社御領武藏國鶴見ク(號大山ク)御年貢内且分所檢納之状如件
   永和三年八月十三日 榮判
  是によれば、延久永和の頃此地は八幡の社領なりし事見るべし。此に註する大山クと云は古より此所のク名なりや、いまだ他の書に見へず此辺は古より稲毛の内なりともいひまた小机の庄とも云傳ふれど、何のクに屬せしと云事は里人もさらに知らず。

とありて古き地名なる事知らる。徳川氏江戸入国以来村高六百五十五石四斗三升一合五勺は御料所たりしが、安政六年十二月神奈川奉行預り地となり、明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村生麥村、東寺尾村及び馬場村飛地と合併して生見尾村大字鶴見となる。大正十二年四月一日鶴見町と改称。大正十四年四月一日鶴見町及び潮田町を廃し新に鶴見町を立つ。昭和二年四月一日濱市に編入す。町名の起りにつき武藏風土記鶴見橋の條に次の異説を載す。
  板橋にて長二十五間横三間なり、林春齋が秦湘紀行に都留見橋十六間とあり。明暦寛文の頃は橋の長さも今と異なり、市場村の堺海道の内鶴見川に架す。土人の説に御入國の前迄は、此橋を釣海橋と唱へしを其後東照宮此橋を渡御ありしに耕地に鶴のあまた群居たるをしばし御覧ありて、是はいと目出度事なりとて橋の名も今より文字を改め鶴見橋とせよと仰せありしかば此時より村名までも改めたりとぞ、此説うけがたし。鶴見村の名は古代よりのことなるは論をまたずして明なり。
と記せり。
  ★中島利一郎は『日本地名学研究』の「神奈川雑記」に鶴見の由来について、鶴見の名は鎌倉時代から現れ、源頼朝がここで鶴を放ったからという伝説もあるが、その地名の本義は、鶴と関係なしに、荒地の義から起こった名であろうという。地名研究で「ツル」とは、水路や河川の周辺の地という地形地名で全国に分布している。また、「鶴見のミ」とは、「まわり、めぐり」を意味する語の「廻」であり、主に出入り変曲した地形を表す語に接した接尾語的にのみ使われる語という。

■生麥町 ナマムギチヤウ   世帯数 三、九〇二   人口 一九、三八七
  元は生麥村と称して橘樹郡の内なり、往古子安クに属せしと云ふ。此村貴志村と呼びし由同所安養寺の過去帳に見へ、或は岸村とも書けり。徳川氏江戸入国後村高六百五十五石四斗三升一合五勺は御料所たりしが、安政六年十二月神奈川奉行預り地となり。明治維新後は神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村鶴見村、東寺尾村及び馬場村飛地と合併して生見尾村大字生麥となる。大正十年四月一日鶴見町と改称。同十四年四月一日鶴見町及び潮田町を廃し其区域を以て新に鶴見町を置く大字生麥と称すること元の如し。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。村名の起りについて武藏風土記は次の如く載せり。「今の村名の起りしはかりそめのことにて、御入國の頃生麥を苅りとりて海道を開かれしゆへ生麥と號すと」。
  ★『新編武藏風土記稿』の「生麦村」の項に「當村昔は貴志村と號せしよし村内養安寺の過去帳にあり或は岸村ともかけり」と記録している。地元の言い伝えでは「二代将軍徳川秀忠がここを差し掛かると、道路一面に水が湛えて通ることが出来ない。その時、村の名主がとっさの機転で急場を繕おうと、海道脇の生麦を刈り取って道に敷き、何事もなく行列が過ぎた。この行為に将軍が大いに感じいって、以来村の名を生麦と呼ぶように、その方らに内海を遣わそうといった。それは、このへん一帯が多く漁場である所から、内海の漁業を許すという意味なのであった。それを名主は内海の姓を賜ったものと早合点して、それから内海と名乗った」という。現在の浦賀水道から北の東京湾は、江戸時代当時、内海といわれていた。そして、この内海には「御菜八カ浦」と呼ばれる八つの専業漁業村落があった。この「御菜八カ浦」は、江戸城の御菜御肴を定期的に献上するとともに、御用船の曳舟などの船役を勤め、その見返りとして内海での漁業に特権が認められていた。「御菜八カ浦」には芝町・品川漁師町(現、東京都)などの五浦と、神奈川漁師町・新宿村(現、神奈川区)・生麦村(現、鶴見区)の三浦を合わせた八浦があった。生麦では、現在、漁業活動は行われていないが、京浜間の寿司種の仕入れ地として、また、ある種のものは築地市場をもしのぐと定評ある朝市が賑わいを見せている。この朝市は、かつての生麦浦のなごりである。地名研究では「ままむぎ」は「砂丘のむき出しになっている地形」を意味するという。

■東寺尾町 ヒガシテラヲチヤウ   世帯数 一、六〇七   人口 七、六九四
  元は東寺尾村と称して橘樹郡の内なり。小田原北條の頃には其家人諏訪三河守の所領なりしが、徳川氏江戸入国後村高四百七十一石七斗七升は御料所となり、明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村鶴見村、生麥村及び馬場村飛地と合併して生見尾村大字東寺尾となる。大正十年四月一日鶴見町と改称。同十四年四月一日鶴見町及び潮田町を廃し其区域に新に鶴見町を置き大字東寺尾と称する事元の如し。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。村名の起りは「地内に禪宗臨濟派松蔭寺あり、同寺に藏せし建武元年の古圖には、其頃寺を正統庵と呼び殊の外大伽藍にて寺領も廣かりしと見ゆ、されば此寺の尾に續きし地なれば寺尾といひしにあらずや」と武藏風土記に見えたり。

■上末吉町 カミスエヨシチヤウ   世帯数 二一四   人口 一、一九七
■下末吉町 シモスエヨシチヤウ   世帯数 一、三〇三   人口 五、五九二

  元は上末吉村及び下末吉村と称して橘樹郡の内なり。往古一村なりしを中古上下二村に分つと云ふも其年代を詳にせず。小田原北條の頃に其家人間宮豊前守知行す。徳川氏江戸入国後上末吉村四十九石一斗六升八合四勺下末吉村三百六十四石八斗二升二合は御料所たりしが明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村獅子ケ谷村、師岡村、駒岡村、馬場村、北寺尾村及び西寺尾村、東寺尾村飛地と合併して旭村大字上末吉。下末吉となる。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。

■駒岡町 コマヲカチヤウ   世帯数 一一六   人口 七四一
  元は駒岡村と称して橘樹郡の内なり。中古上中下の三村に分てりと云ふ。徳川氏江戸入国後は御料所たりしが、寶永の頃下駒岡村四十石九斗四升五合六勺、中駒岡村三百九十四石六斗九升五合、上駒岡村百七十三石三斗三升四合を旗本久志本左京に賜ひ子孫世々知行せり、明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村獅子ケ谷村、師岡村、上末吉村、下末吉村、馬場村、北寺尾村及び東寺尾村、西寺尾村飛地と合併して旭村字駒岡となる。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。
  ★地名研究で「コマオカ」とは「駒形の岡」あるいは「谷戸の発達した岡」を意味するという。

■獅子ケ谷町 シシガヤチヤウ   世帯数 五五   人口 三六一
  元は獅子ケ谷村と称して橘樹郡の内なり。古へは師岡クに属せしと云ふ。文禄三年に記せしものには「師岡の内鹿ケ谷」と書せり。徳川氏江戸入国後は村高三百九石三斗二升四合は御料所なりしが慶長年中小田切美作守、山下又助の両名に賜へり、此時より小田切が知行の方を上村と唱へ、山下分を下村と呼べり。下村の方は一旦御料に復せしが、寶永三年十二月久志本左京に賜はる。明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村師岡村、駒岡村、上末吉村、下末吉村、馬場村、北寺尾村及び東寺尾村、西寺尾村飛地と合併して旭村大字獅子ケ谷となる。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。村名の起りは往昔師岡村熊野権現社領にて祭のとき獅子舞を受け持ちしより村名となると云ふ。
  ★「シシ」は猪や鹿の意味もある。また地名研究で「シシ」とは谷を形容する言葉で、「せばまった地形の谷」の意味という。

■北寺尾町 キタテラヲチヤウ   世帯数 一六三   人口 一、〇四一
  元は北寺尾村と称して橘樹郡の内なり。徳川氏江戸入国以来村高二百九十一石七斗九升八合御料所にて明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村獅子ケ谷村、師岡村、上末吉村、下末吉村、馬場村及び東寺尾村、西寺尾村飛地と合併して旭村大字北寺尾となる。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。町名の由来は東寺尾町に同じ。

■馬場町 ババチヤウ   世帯数 一五二   人口 七三九
  元は馬場村と称して橘樹郡の内なり。古へ寺尾と一村なりしが中古寺尾村を東西北の三村に分ちしとき、当所も同じく分れしと云ふ。小田原北條の頃は其家人諏訪三河守此地に居城せり。徳川氏江戸入国後村高二百六十三石八斗四升五合は御料所たりしが、明治維新後神奈川県の管轄に属す。市町村制施行の際隣村獅子ケ谷村、師岡村、駒岡村、上末吉村、下末吉村、北寺尾村及び東寺尾村、西寺尾村飛地と合併して旭村大字馬場となる。昭和二年四月一日濱市に編入旧村名を採りて町名とす。村名の起りは、小田原北條の家人諏訪三河守此地に居城せし時の馬場の跡なるより村名となりしと云ふ。
  ★『新編武藏風土記稿』の「馬場村」の項に「今に村の東境より東寺尾村にかゝりて其跡残れり、されど正保の頃迄も當村は分らざりしに、其後よりして今の如く村名に呼びしとみゆ」の記録がある。地名研究で「ハバ」(山上の平坦地)という地形用語が「馬場」という字にあてられているという。

■大K町 ダイコクチヤウ   世帯数 〇   人口 〇
  昭和十二年三月十二日生麥町先三十七万一千九百四十三坪の公有水面埋立地を濱市域に編入し惠比須町と並び縁起を祝ひ福神に因み大K町と命名せり。


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