中 區 | |
■港町 ミナトチヤウ 世帯数 四八 人口 二六一 嘉永三年より安政三年三月にかけ、參州碧海郡川崎村の人太田源左衞門なるもの、濱村南の海面八萬五百餘歩を埋立て太田屋新田と稱せり。濱開港後急速の發達に伴ひ、數年ならずしてこの新田沼地も埋立てられ人家櫛比して町並整ひたり。依て明治四年七月新田内に當町の外相生、住吉、尾上、小松、小船、高砂等の各町を設けたり。六年五月相生町以南燒失せるを機として區劃の改正を行ひ、新濱、若松、香A高砂、小松、小船、駒形の七ケ町名を廢し、相生、尾上、住吉、常盤、眞砂、港の六ケ町を東西直線に通じ道幅を六間四間の二様に通じて地區を改正せり、この時當町區域に小松町を併せて一丁目より六丁目迄を設けたり。即ち開港場に因み港を町名とす。 ■眞砂町 マサゴチヤウ 世帯数 一二五 人口 六五二 當町區域はもと太田屋新田の内なり。慶應二年十月廿日、太田町、坂下町、駒形町等の焼失を機に、居留地と日本人町との地區改正をなし、代地として太田屋新田沼地の内を貸與し自費埋立をなさしむ。この時吉田橋の北凡一萬二千餘坪は官に於て埋立、之れを港崎町の代地に充つる事とせり、埋立成功の後、各國公使より該代地は遠隔不便なれば、本町より一直線に馬事道を設けられん事の建言ありしより、不得止共見込を變へて馬車道を開くに至る。其敷地となる部分は官の埋立地に於て代地を貸與せり。之の時官私両地の整頓行はれ、こゝに當町の外新濱、若松、高フ四ケ町えを新設す、當町邊は伊藤清十郎の埋立地なり。明治六年五月相生町以南焼失後若松町、穀ャ及び尾上町の一部を併せて四丁目迄を設けたり。即ち町名眞砂は佳名を以て名付けしと云ふ。 ■尾上町 ヲノヘチヤウ 世帯数 二八五 人口 一、二七一 明治四年七月太田屋新田埋立地へ當町を設く。六年五月相生町以南の焼失を機として地區の改正を行ひ、其一部を眞砂町に入れ、新濱町を廢して當町に併せ、一丁目より六丁目迄を置けり。町名の由來は相生、住吉、常盤と共に謡曲より採ると云ふ。 ■常盤町 トキハチヤウ 世帯数 二六四 人口 一、四七〇 慶應の頃、太田屋新田沼地を埋立て、明治四年七月町名を付す。六年五月相生町以南の焼失を機として地區の改正を行ひ、隣町を併せて六丁目迄を置く。町名の由來は前町に同じ。 ■住吉町 スミヨシチヤウ 世帯数 二七三 人口 一、三七七 慶應の頃、太田屋新田沼地を埋立て、明治四年七月町名を付す。六年五月相生町以南焼失後、地區の改正を行ひ、隣町を併せ六丁目迄を置けり。町名の起りは前町に同じ。 ■相生町 アイオイチヤウ 世帯数 二一二 人ロ 一、一五六 慶應の頃、太田屋新田沼地を埋立て、明治四年七月町名を付す。六年五月相生町以南焼失を機として地區の改正を行ひ、隣町を併せ六丁目迄を置く。町名の由來は前町に同じ。 ■太田町 オホタマチ 世帯数 一七七 人口 八六八 嘉永三年より安政三年三月にかけ、參州碧海郡川崎村の人太田屋源左衛門なるもの、濱村以南の海面を埋立て、高三十八石二斗餘の水田を開き安政三年官簿に入り久良岐郡に屬したり、依て其姓を採りて太田屋新田と称せり。安政六年六月太田町の町名を付し、二丁目より五丁目迄を置き、其丁目は西より東に進みて唱へたりしが、明治四年四月之れを東より西に數へるに至り、且つ一丁目より六丁目迄とせり。 武州~奈川太田屋新番記(以下省略) ■辧天通 ベンテンドホリ 世帯数 一四三 人口 七四八 元、久良岐郡の内にて濱村の地なり。安政六年六月二日濱開港に際し、市街を海邊通、北仲通、本町、南仲通、辧天通の五筋に分つ。當時は本町の外は皆二丁目より五丁目迄を置き其丁目は西より東に進み唱へたりしが、明治四年四月今の如く東より數へるに至り同時に一丁目と六丁目を設けたり。辧天通とは即ち、鎮守洲干辧天社に通する道筋にあたるより採りて町名とせり。 ■南仲通 ミナミナカドホリ 世帯数 五六 人口 二三五 當町の沿革は辧天通に同じ。町名を南仲通とせしは、即ち本町通と辧天通の間にあり、且つ本町の南方なるを以てなり。 ■本町 ホンチヤウ 世帯数 六七 人口 三二四 辧天通、南仲通、北仲通と同時に新設したる五ケ町の一なり。當町のみは一丁目より五丁目迄を立つ、町目の呼唱は前町と同様改められ且つ六丁目を加へたり。當町はもと濱村の眞の本通とも云ふベき道筋なりしと又五ケ町の中心地なりしよりかく名付けしと云ふ。 ■北仲通 キタナカドホリ 世帯数 七一 人口 三五五 當町の沿革は辧天通、南仲通に同じ、町名を北仲通とせしは本町の北に並行せる仲通りなるを以てなり。 ■元濱町 モトハマチヤウ 世帯数 八三 人口 四一四 當町は辧天通、南仲通、本町、北仲通と共に安政六年六月濱開港の當初設けたる海邊通にて、其丁目等も辧天通と同じかりしが、明治四年四月其海岸を埋立て更に海岸通の町名を付せしより、當町を元濱町と改稱し丁目を一丁目より四丁目迄に改めたり。 ■海岸通 カイガンドホリ 世帯数 五九 人口 三四四 明治四年四月海邊通の海岸を埋立て、こゝに當町を新設せり。即ち海岸の街衢なるより爾か名付け、一丁目より五丁目迄を置く。 ■日本大通 ニホンオホドホリ 世帯数 八九 人ロ 三五九 元、濱村の内にて、開港により外國人の民留地に定められし地なり。明治十二年一月居留地内に三十ケ町名を付せり、即ち當町地域を日本大通とせり。三十二年七月之の諸町を通じて山下町と改稱し其舊町名を小名とせり、昭和三年九月一日整理の際、境町を廢して其全區域と山下町及本町一丁目の一部の區域に新に當町を立て舊名日本大通を町名とせり。因みに境町は居留地と日本人街との境なるより斯く名付けられしなり。 ■濱公園 ヨコハマコウエン 世帯数 一二 人口 三五 元治、慶應の條約に基き、政府は明治七年内外人遊園の築造に着手し、九年竣功を告げ、彼我公園と呼べり。其後變遷ありて明治三十二年八月濱市の管理となる、茲に於て濱市は明治四十二三の両年度に亘り之れが改築を圖り始めて公園としての美觀を呈せり。然るに大正十二年九月一日関東大震災のため此歴史ある公園も焼土と化し了れり。震災後その復興に着手諸般の施設を完備し災前に優れる公園となれり。昭和三年九月町界町名整理の際、濱公園の町名を付したり。此地は安政六年濱開港に先立ち、太田屋新田沼地を埋立て遊郭を設けて港崎町と呼びたり。岩龜楼遊女喜遊が 露をだに厭ふ大和の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ の一首を認め自刄せしと云ふも此地の出來事と傳へらる。 ■新港町 シンカウチヤウ 世帯数 一〇 人口 二九 明治三十一年、時の濱税關長大越成コは、税關地先の海面埋立並に諸施設等、税關規模擴張計畫を立て、後水上浩躬税關長となるに至り、之を實施すべく主務省に稟請したる結果、政府の容るゝ所となりて、議會の協賛を經、翌三十二年七月より五ケ年繼續事業として實地測量に着手の上、三十三年五月第一期擴張工事を起工せり。爾來設計並に工事に幾多の變遷を重ね、明治三十八年十二月満七ケ年の日子と二百三十四萬五千餘圓の巨費を費し、埋立を完成したり。依て明治三十九年五月二十二日新港町の町名を付したり。 ■山下町 ヤマシタチヤウ 世帯数 一、一七一 人口 四、六八四 元、久良岐郡濱村の内なり。安政六年開港にあたり、此地を外國人居留地と定め、外國人居留地と稱せり。慶應二年三月、太田屋新田沼地を埋立て地域を擴張す、明治十二年一月居留地に、日本大通以下三十ケ町名を付したりしも、三十二年七月に至り、居留地諸町を通じて山下町と改稱し三十ケ町名は其小名となせり。昭和三年九月町界町名整理の際、もとの境町を廢し其全區域と當町及本町一丁目の各一部の區域に日本大通の町名を付せり。 ■元町 モトマチ 世帯数 六四九 人口 三、三八一 萬延元年二月、堀川の東へ濱村の民家を移し、濱元町と呼べり。其後地域を擴げ、文久三年に至り今の形となる。市町村制施行以後は單に元町と稱するに至れり。一丁目より五丁目迄を置く濱村を移せしより元町と名付く。 ■新山下町 シンヤマシタチヤウ 世帯数 五九一 人口 二、二七八 大正四年十一月、濱埋立株式會社は山手町地先海面九萬七千六百九十六坪五合七りの埋立に着手し、同十二年竣功を告げたり。依て同年二月廿六日この埋立地に當町を新設し山下町地先の地なるより新山下町と命名し、一丁目より三丁目迄を置けり。 ■山手町 ヤマテチヤウ 世帯数 四四八 人口 一、九四九 初めは單に山手と呼ペり。外國人居留地として慶應二年の條約に設定せらる、明治十七年七月山手居留地に二十六ケ町名を付す、三十二年七月山手居留地諸町を通じて山手町と改稱し舊町名は其小名となせり。即ち濱の地勢より山手町と名付く。 ■扇田町 オホギダチヤウ 世帯数 四〇一 人口 一、九一四 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字扇田の大部と字鹽田の一部の區域に當町を新設し、一丁目より三丁目迄を置き、舊字名を採りて町名となす。 ■杉山町 スギヤマチヤウ 世帯数 八〇九 人口 三、六五五 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字扇田、宮前、西前、鹽田、枕の各一部の區域に當町を新設し一、丁目より四丁目迄を置く。即ち地内に鎮守杉山神社あるより採りて町名に付す。 ■西前町 ニシマエチヤウ 世帯数 八八二 人口 三、九二六 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字西前の大部と宮前、池ノ坂、西ノ原、枕の各一部の區域に當町を新設し一丁目より四丁目迄を置き、舊字名を採りて町名に付す。 ■藤棚町 フジダナチヤウ 世帯数 一、三五五 人口 六、〇五四 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字枕、西ノ原、稲荷臺、鹽田及び久保町宇鹽田の各一部の區域に當町を新設し、昭和十年七月一日整理の時、一丁目二丁目を置く。町名の起りは、現在の市内電車停留所際某家の軒先に藤棚ありしより、世人此所を藤棚と呼びしに端を發し、電車敷設に際し、こゝに停留所を設くるにあたり、停留所名を藤棚とし遂に又町名となせり。 ■濱松町 ハママツチヤウ 世帯数 二九〇 人口 一、三四三 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字鹽田及び久保町字鹽田の一部の區域に當町を新設す、此地昔鹽田のなりし頃、潮屋の煙に磯馴松ありて頗る雅趣に富みし所なりしと云ふ、故に磯馴松即ち濱松を採りて町名に付す。 ■久保町 クボチヤウ 世帯数 一、八三六 人口 元、一三二 元、保土ケ谷宿の内なり。明治四十四年四月一日、保土ケ谷町大字岩間の内寺下の一部、宮下、殿田、反町、鹽田、關面、道上の一部、東臺、池ノ上、久保山下、外荒具、大丸の區域を濱市に編入して久保町とす。昭和十年七月一日町界町名整理の際、其區域内に西久保町、東久保町、元久保町の三ケ町を新設し、舊字中、大谷、道上、東臺、池上、鹽田、反町の各一部を當町區域となせり。 ■西久保町 ニシクボチヤウ 世帯数 五五九 人口 二、四三八 元、久保町の内なり。昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字鹽田、反町、殿田、宮下、寺下、道上、外荒具の各一部の區域に當町を新設し、久保町の西なるより西久保町と名付く。 ■東久保町 ヒガシクボチヤウ 世帯数 九四六 人口 四、三六九 元、久保町の内なり。昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字池上、林越、東臺、外荒具の各一部の區域に當町を新設し、久保町の東にあたれるより東久保町と名付く。 ■元久保町 モトクボチヤウ 世帯数 一六五 人口 六九三 元、久保町の内なり。昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字大谷、林越、久保山、大丸、外荒具の各一部の區域に當町を新設し、久保町の舊字地なるより元久保町と名付く。 ■伊勢町 イセチヤウ 世帯数 三一八 人口 一、四〇二 元、戸部村の内なり。明治三年地内に皇大神宮を遷座せるより、明治五年五月當町を設けし時、伊勢町と命名し、一丁目より五丁目迄を置く。昭和三年九月一日町界町名整理の際、元の三丁目を一丁目に改め、西戸部町字反目、御所、宮ノ前の各一部の區域を當町に併せ、西平沼橋交叉點迄延長し四丁目迄とせり。 ■石崎町 イシザキチヤウ 世帯数 三二四 人口 一、六五三 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字石崎及び扇田の一部の區域に當町を新設し舊字名を採りて町名に付し、一丁目二丁目を置く。 ■天~神 テンジンチヤウ 世帯数 四五五 人口 二、二一四 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字石崎及び扇田の一部の區域に當町を新設し、一、二丁目を置く。此地昔天~社を鎮座しありしより採りて町名とす。 ■紅梅町 コウバイチヤウ 世帯数 四四六 人口 二、〇六三 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字石崎及び御所の一部の區域に當町を新設し一、二丁目を置く。此地は即ち天~町の續きの地なるより、縁由の名を索めて紅梅町と名付く。 ■御所山町 ゴショヤマチヤウ 世帯数 三八八 人口 一、五八〇 元、西戸部町の内なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字御所、反目の各一部の區域に當町を新設す。當所は鎌倉時代富士の巻狩の時、曾我五郎時宗を抱き止めし御所五郎丸こゝに居住せしより地名となれりとの傳説あり、此邊幾分小高き丘なるより一般に御所山と呼べり、採りて町名とす。 ■戸部町 トベチヤウ 世帯数 一、一七四 人口 五、三三七 元、戸部村と稱して久良岐郡の内なり。村名の文字を舊くは富部とも書きし由舊記に見ゆ。源義家の頃、武藤頼氏の領地たりし事ありと、又管領上杉定政の頃其家人山本大膳の所領となりしと云ふ。或は又戸部民部といへる者居住したるより村名となれりと云ひ、或は鎌倉時代御所五郎丸當所に居住せしなど傳説を存せり。小田原北條家の頃には北條陸奥守氏照、上原出羽守、中村平四郎など領したる外、大境寺、林光寺等の寺領もありし由武藏風土記に載せたり。コ川氏江戸入國後村高六百四石五斗七升五合は御料にて代官の支配なりしが、安政六年六月濱開港に際し、~奈川奉行預り地となせり。開港と聞き商民の濱に移住する者恰も洪水の如く蝟集し、濱の地は収容の寸地なきに至り、次第に外方に向つて發展を遂げ、濱道に當れる當町邊も亦忽ち商家櫛比したり。依て戸部村より割きて一町を立て村名戸部を採りて町名とし七丁目迄を置く。 ■紅葉ケ丘 モミジガヲカ 世帯数 六六 人口 三三三 元、伊勢町一、二丁目、及び戸部町二、三、四丁目の一部と掃部山全部の區域なり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、當町を新設す。紅葉坂上の丘陵地なるより紅葉ケ丘の町名を付せり。 ■宮崎町 ミヤザキチヤウ 世帯数 八二 人口 四三〇 元、戸部村の内、字宮ケ崎と稱せる地なり。明治三年四月附近に皇大神宮の遷座ありてより、之の通り家屋建ち續きしより、同年九月町名を付せり。即ち舊字名の宮ケ崎なると又皇大神宮鎮座とに因み宮崎町とせり。 ■花咲町 ハナザキチヤウ 世帯数 七八六 人口 四、〇四六 元治元年戸部町地先海岸凡幅五十間を埋立て、石炭倉庫六棟を建つ、其地は花咲町五丁目邊にあたる、明治五年十一月之の埋立地に當町を新設し一丁目より十二丁目迄を置き、櫻川、櫻木町に關連し佳名を以て花咲町と名付く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、一丁目を豪エに延長し、s町を廢して二丁目とし、戸部橋を境に七丁目迄とし、八丁目より十二丁目迄を廃せり。 ■橘町 タチバナチヤウ 世帯数 一三〇 人口 六三七 明治七年七月、内田町地先の埋立地へ當町を設け佳名を以て橘町の町名を付し、一丁目より三丁目迄を置く。 ■穀ャ ミドリチヤウ 世帯数 二四 人口 一五七 明治七年七月、内田町六、七、八丁目地先埋立地へ當町を設け、佳名を以て穀ャと名付け、一丁目より三丁目迄を置く。 ■長住町 ナガスミチヤウ 世帯数 ○ 人口 ○ 明治二十年七月、rキ町一、二、三丁目と長住町一、二丁目及び内田町三、四、五丁目の片側を併せて長住町と改稱し一、二丁目を置き佳名を以て長住町と名付く。是に於てrキ町は廢されたり。 ■櫻木町 サクラギチヤウ 世帯数 二〇五 人口 一、〇五七 明治五年鐡道敷設工事終了後、鐡道柵外を町並とし、五月櫻木町の名を付し、一丁目より七丁目迄を置く。町名の起原は、前年開鑿せし櫻木川に沿へるより斯く名付く、櫻木川はのち、木の字を除きて櫻川に改む。 ■入船町 イリフネチヤウ 世帯数 〇 人口 ○ 濱船渠株式會社の埋立に係る、内田町及び長住町地先海面埋立地に、明治三十五年一月十三日當町を新設す、即ち船渠會社のある地なるより縁起を祝ふて入船町と命名せり。 ■内田町 ウチダチヤウ 世帯数 八四 人口 四三〇 請負人京屋號内田清七の埋立たる地なり。明治五年九月其姓を採りて内田町と命名し、一丁目より十二丁目迄を置く、二十年七月三、四、五丁目の片側を長住町とす、今は一丁目より八丁目迄となる。 ■西戸部町 ニシトベチヤウ 世帯数 二、二九八 人口 一〇、二六四 元、戸部村の内なり。濱開港以前の沿革は戸部町に同じ、市町村制施行の際、戸部町、平沼新田、尾張屋新田、太田村、吉田新田を併せ戸太村を立て其大字戸部と稱せり。明治二十八年七月戸太町と改稱し、同三十四年四月一日濱市に編入して西戸部町と改む、昭和三年九月一日町界町名整理の際、扇田、杉山、西前、藤棚、紅梅、天~、石崎、御所山、濱松の諸町を地内に立てたり。 ■老松町 オイマツチヤウ 世帯数 一六三 人口 八一七 元戸部村の内なり、明治九年二月町並整へるより町名を付し一、二丁目を設く、昭和十年七月一日町界町名整理の際丁目を廢せり、此邊昔老松多く景勝の地なりしより佳名を以て老松町と命名せしと云ふ。 ■東ケ丘 アズマガヲカ 世帯数 三八八 人口 一、八二九 元南太田町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字東耕地及び谷原耕地の一部の區域に當町を新設し字名に因み佳名を以て名く。當所には昔東~社ありしより字名を東耕地と稱せしと云ふ。 ■赤門町 アカモンチヤウ 世帯数 二九二 人口 一、三二〇 昭和十年七月一日町界町名整理の際、霞町一丁目及び清水町、南太田町字谷原耕地、霞耕地の各一部の區域に當町を新設し一、二丁目を置く。地内に眞言宗の古刹東n宸り古來其山門を赤く塗れるより世人赤門と呼びて名高し、依て採りて町名に付す。 ■霞ケ丘 カスミガヲカ 世帯数 四九〇 人口 一、九六〇 元南太田町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字霞耕地、谷原耕地、庚耕地の區域に當町を新設し字名に因みて町名を付す。 ■境之谷 サカイノタニ 世帯数 六五八 人口 二、九四八 昭和十年七月一日、町界町名整理の際、西戸部町字境之谷、富士塚及び南太田町字庚耕地の各一部の區域に當町を新設し舊字名中の境之谷を町名とす。 ■野毛町 ノゲチヤウ 世帯数 五七五 人口 二、七四七 古へ野毛浦と稱して戸部村の内なりしが、文政の頃に分れて一村を立つ、萬延元年~奈川奉行預り地となり、村名を改めて町名となし一丁目より四丁目迄を置けり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、丁目の立替へを行へり。 ■宮川町 ミヤガワチヤウ 世帯数 二七九 人口 一、三九〇 明治五年十一月、野毛浦埋立地を花咲町都橋より西河岸に當町を新設して宮川町と名稱せり、町名の由來をきかず。 ■日ノ出町 ヒノデチヤウ 世帯数 二九二 人口 一、四〇五 寶暦の頃埋立たる地にして、當時太田村に屬せり。開港に際して越前h苡骼蜿シ平越前守茂昭この地に陣屋を設く、世人呼んで太田の陣屋と稱せり。文久元年松代藩之に代り、慶應三年に至り佛式陸軍三兵傳習所(歩騎砲)を此陣屋跡に置きしも間もなく江戸に移せり。明治政府となりて縣兵隊の本營に充てたりしが、明治四年關門廢止と同時に廢されたり、同年九月町並の整ひたる所に當町を設け一丁目より三丁目迄を置き佳名を以て名付く。昭和三年九月一日町界町名整理の際三丁目を廢せり。 ■英町 ハナブサチヤウ 世帯数 一四三 人口 七〇六 元、久良岐郡太田村の内なり、明治四年九月町並の整ひたる處に當町を新設し一丁目より三丁目迄を置けり。昭和三年九月一日町界町名整理の際、太田橋通の市内電車線路を界に霞町一、二丁目を含める地域とし丁目を廢せり。町名の起原は、淮南子に清水有黄金龍淵有玉英とあり採つて名付くと云ふ。 ■初音町 ハツネチヤウ 世帯数 三七九 人口 一、三八九 元、太田村の内なり、明治四年九月町並の整ひたる處に當町を新設し佳名を以て初音町と名付け一丁目より四丁目迄を置く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、四丁目の地域を前里町に分割せり。 ■黄金町 コガネチヤウ 世帯数 一六四 人口 六九八 元、太田村の内なり、明治二年の新設にて四丁目迄を置く。町名の由來は英町と同じく、淮南子の清水有黄金龍淵有玉英より採る。 ■長者町 チヤウジヤマチ 世帯数 一、一六七 人口 六、一八二 元、久良岐郡吉田新田の内なり。明治三年六月同新田埋立地に當町を新設し、縁起を祝ふて長者町と名付け、一丁目より九丁目迄を置く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、五丁目より九丁目に至る區間を消防暑横通を堺に長者橋際に至り、市内電車線路を中心に、山吹橋通り旭橋に至る區域に改む。町名の起りに左の傳説存せり。 同町水天宮に合祀せる長者稲荷あり、明治初年の頃、吉田新田八町畷(今の六丁目邊)に、林甚左衛門と云へる者居住せり、此人信州小縣郡の者にて、未だ在クの頃、濱の開港を聞き、固き決意と希望を抱き濱に出て日夜孜々商業に従事せり、或日新田通行中草叢中に白狐の姿を認めたり、之れ我成功の前兆なるぺしと窃かに喜び益々共其業を勵めり、一夜夢に老翁現はれ我は先きに汝に姿を見せしめし伏見稲荷の眷族なり、汝日頃の信仰甚だ奇特なり、今より我を信ぜよ汝の心にめで将來汝を長者の身分となし與ふべし、必ず疑ふ事なかれと告げ終りて醒む、甚左衛門甚だ奇異を感じ、之れ正に靈夢なりとし、日夜崇敬怠らざりしに、忽ち靈験者はれ、數年ならずして巨萬の富を得たり、依て小判七十枚を献じて本社伏見より分靈を請じて邸内に小祠を建て長者稲荷と崇め信心愈厚かりし、この事市中の評判となり、参拝祈願を乞ふもの引きもきらず、後年町名を付するにあたり、縁起この上なき稲荷の名「長者」を採りて町名とせしといへり。 ■ux町東通 フクトミチヤウヒガシドホリ 世帯数 一四九 人口 八九九 元、吉田新田の内なり、明治三年六月町並の整ひたる處に當町を新設し三丁目迄を置き、縁起を祝ふてux町と名付く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、地内を三ケ町に分ち其一丁目を當町區域とし、ux町東通の町名を付せり。 ■ux町仲通 フクトミチヤウナカドホリ 世帯数 二一二 人口 一、〇〇二 元、ux町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、従來の二丁目を當町區域ux町仲通の町名を付せり。 ■ux町西通 フクトミチヤウニシドホリ 世帯数 二三五 人口 一、一四三 元、ux町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、従來の三丁目を當町區域としux町西通の町名を付せり。 ■吉田町 ヨシダチヤウ 世帯数 一三九 人口 七五九 昔野毛浦續きの海面なりしを、萬治二年江戸材木商吉田勘兵衛が中村なる大丸山、太田村小丸山の二ケ所の土を以て四方に長さ二千五百五十間餘の堤を築き入海を埋めて新田を開けり、勘兵衛は其功に依り苗字帯刀を許され、其姓を採りて吉田新田と名付けられ、久良岐郡に屬されたり。石高千三十石は開發以來御料所となり、濱開港後~奈川奉行の預り地となりて明治維新に及べり、廢藩置県の際~奈川縣の管轄に屬す、濱の發達につれ、明治の初め新田内に早くも諸町の設立を見、次第に伸展して現在舊新田には伊勢佐木町を始め三十七ケ町を數ふる濱市中第一の殷賑地と成るに至り、勘兵衛は大正十三年二月皇太子殿下御結婚祝典にあたり、御贈位の恩賞を賜はれり。當町は即ち新田の一部なり、文久元年堤塘に貸長屋を建つ、今の一、二丁目なり、是より漸次大岡川沿岸を開發し、元治元年當町を新設一、二丁目を置き新田名を採りて町名に付せり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、丁目を廢し柳町を合せたり。 ■末廣町 スエヒロチヤウ 世帯数 一〇一 人口 四七九 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、姿見町及び羽衣町一、二丁目の一部と若竹町の區域内に當町を新設し縁起を祝ふて町名を付し、一丁目より三丁目迄を置く。 ■伊勢佐木町 イセザキチヤウ 世帯数 六九四 人口 三、七八一 元、吉田新田の内なり、明治七八年の頃、當町を新設して一、二丁目を置くと云ふも設立の年月を詳にせず、昭和三年九月一日町界町名整理の際、松ケ枝町、賑町、長島町を廢し其區域を長者町及び久方町の一部と末吉町六丁目を經て南吉田橋に至る迄に延長し七丁目迄を置く、町名の由來を詳かにせざるも巷間傳説に左の三説あり。 第一説 明治七八年の頃、元~奈川奉行たりし合原伊勢守、佐々木信濃守の二氏共同開發して街衢となす、伊勢佐木町は即ち二氏の官名及び姓を連結せしものと云ふ。 第二説 現在伊勢佐木町一丁目角、萬太果實店の位置に、明治七年頃、蕎麦屋を開業せし伊勢の國出身の佐々木某が其家號佐々木庵と呼び非常に繁昌せり、其後町並整ひ町名を付する際、最初の開拓者たりし彼の生國伊勢と佐々木を採り伊勢佐木町となせしと云ふ。 第三説 明治五六年の頃、太田町住、伊勢文蔵なるものと、櫻木町住佐々木次平なる両人、濱市中に歓楽境を創設すべく、吉田橋際現今一丁目附近の埋立を企て、其資金を元濱町渡邊某より借入れ、埋立完了後興行場とせしも、當時此邊常清寺の墓地ありて人煙なき地なりしより、夜中人玉の飛來せしなどの噂ありて、興行物に入場するもの少なく、其思惑は遂に失敗に終れり、渡邊方よりは貸資の催促日々に來るも返済の目當もなく小心なる佐々木次平は之を苦痛とし遂に櫻川に投身自殺するに至れり、其為め返済の義務は伊勢文蔵一人にかゝれるより、文蔵も又佐々木の跡を追ふて縊死せり、両人死後幾何もなくして此埋立地は非常なろ發展を遂げ、墓地は移轉され、町並建ち續くに至りて、町名を附するに當り、縣官に於て詮議中、偶々來會せし陸奥宗光の厳父伊達千廣翁は、この雑談の中に伊勢文蔵、佐々木次平の談にうつり、曰く、彼等両名は而も最初の開發者なれば、せめて両名の名を後世に殘さば、地下の靈亦た慰するに足らん、よろしく二人の名を採り、伊勢佐木町とせばと進言せるに、縣官も之に賛同し遂に町名とせしと云ふ。 ■萬代町 バンダイチヤウ 世帯数 一一二 人口 六一七 元、吉田新田の内南一ツ目と稱せし沼地なり、明治三年四月~奈川縣裁判所は、中村地内字彌八ケ谷戸より瀧頭村地内字八幡川迄新川を堀割り水運の便をひらき、同時に開鑿の土砂を利用して吉田新田南一ツ目の沼地、凡七萬坪を埋立てん事を企畫し、自力一手に引受くる者に貸與すペき旨布告せり、この地元より吉田勘兵衛、同常次郎両家の所有權にあるより、両家は之れに應じ金權者を得て埋立會社を組織し同年五月起工し幾多の經緯を經て六年四月成功せり、依て縁起を祝ふて當町外不老、翁、扇、壽、松影の六ケ町名を付し、當町は三丁目迄を立てり。翌七年八月彌八ケ谷戸切割工事又落成し瀧頭海岸より中村、大岡、吉田の三川に舟運の便を開けり。 ■不老町 フロウチヤウ 世帯数 三八五 人口 二、〇六〇 其沿革は萬代町に同じ三丁目迄を置く。 ■翁町 ヲキナチヤウ 世帯数 三〇〇 人口 一、四七九 其沿革は萬代、不老兩町に同じく四丁目迄を置く。 ■扇町 アフギチヤウ 世帯数 三八一 人口 一、九四七 其沿革は萬代、不老、翁町に同じく四丁目迄を置く。 ■壽町 コトブキチヤウ 世帯数 四〇一 人口 二、一二二 其沿革は萬代、不老、翁、扇の各町に同じく四丁目迄を置く。 ■松影町 マツカゲチヤウ 世帯数 五二五 人口 二、五六三 其沿革は萬代、不老、翁、扇、壽の各町に同じく四丁目迄を置く。 ■吉濱町 ヨシハマチヤウ 世帯数 二〇七 人口 九一二 元、吉田新田の内なり、慶應元年十二月新田沼地の中東北隅数千坪を埋立翌二年コ川幕府は此地に製鐡所を設置す、明治七年七月吉濱町の名を付す、十二年十二月製鐡所を民業に移し、十八年八月之を東京石川島に移す。 ■石川町 イシカハチヤウ 世帯数 一、四一五 人口 六、三〇五 昔時石川クと稱す、後石川中村と改む、明治六年一月、石川中村の内、町並の整ひたる處に當町を新設し、七丁目迄を置く。昭和十年七月一日町界町名整理の際、六、七丁目を廢せり。 ■山吹町 ヤマブキチヤウ 世帯数 二二一 人口 九四〇 元、吉田新田の内なり、明治五、六年頃の新設と云ふ、三丁目迄を置きしが、同十五年一月三丁目を永樂町に入れ、一、二丁目を存す、佳名を以て町名に名付く。 ■富士見町 フジミチヤウ 世帯数 二二九 人口 一、〇四四 元、吉田新田の内なり、明治五、六年頃の新設と云ふ、五丁目迄ありしが、明治十五年一月其三丁目を永樂町に、四、五丁目を眞金町に入れ、一、二丁目迄となる。佳名を以て町名に名付く。 ■山田町 ヤマダチヤウ 世帯数 三七六 人口 三、二一一 元、吉田新田の内なり、明治五、六年頃の新設と云ふ、五丁目迄ありしが、明治十五年一月其三丁目を永樂町に、四、五丁目を眞金町に入れ、一、二丁目とな。山田某なるもの最初の移住者なりしより其姓を町名に付せしと云ふ。 ■千歳町 チトセチヤウ 世帯数 三六二 人口 一、五七七 元、吉田新田の内なり、明治七年七月の新設にて三丁目迄を置き、縁起を祝ふて千歳町と名付く明治十五年一月其三丁目西側を永樂町に分割す。 ■永樂町 エイラクチヤウ 世帯数 三〇六 人口 一、六三〇 元、吉田新田の内なり、明治十三年より高島町遊廓を此地に移す、明治十五年一月千歳町三丁目西側と山田町、富士見町、山吹町の各三丁目を併せ、永樂町とし一、二丁目を置き、遊里によき名を選ペり。 ■彌生町 ヤヨイチヤウ 世帯数 二四九 人口 一、四二五 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、足曳町一丁目の一部、雲井町、一二丁目、駿河町一、二、三丁目、南吉田町四ツ目の一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く、町名は唱歌「春の彌生の曙」より採り佳名を以て名付く。 ■曙町 アケボノチヤウ 世帯数 五七八 人口 二、五八六 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、久方町一、二丁目、足曳町一.二丁目、賑町二丁目、吉岡町一、二、三、四、五、六丁目、長者町四丁目、長島町四、五丁目、南吉田町南五ツ目の各一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く、町名は彌生町と同じく、唱歌「春の彌生の曙」より採る。 ■若葉町 ワカバチヤウ 世帯数 三一九 人口 一、六七四 元、吉田新田の内なり、明治六年十一月當町を新設し、佳名を以て名付け、三丁目迄を置く。 ■末吉町 スエヨシチヤウ 世帯数 六七三 人口 二、七六八 元、吉田新田の内なり、明治六年十一月當町を新設し、縁起を祝ふて末吉町と名付け、七丁目迄を置く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、五、六、七丁目を廢し、四丁目迄となる、即ち一丁目を黄金橋迄延長し、萬治橋通を境に太田橋迄の一廓を當町の區域とせり。 ■蓬莱町 ホウライチヤウ 世帯数 二五二 人口 一、一二六 元、吉田新田の内なり、明治六年三月羽衣町裏の埋立地に當町を新設し縁起を祝ふて名付け、四丁目迄を置く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、四丁目を廢せり。 ■羽衣町 ハゴロモチヤウ 世帯数 二七三 人口 一、二三二 元、吉田新田の内なり、明治二年の頃迄はこゝを姿見町裏と俗稱せり、同年八月羽衣町の町名を付し、三丁目迄を置く、町名の由來は、明治二年六月、もと濱村の鎮守辧天社をこの地に遷座せしより、天女に關係ある文字を選み羽衣町とせり、近傍に翁町、扇町等あり、何れも羽衣に縁故ある町名を附せるは、皆之れに起因せるなり。 ■高砂町 タカサゴチヤウ 世帯数 二五五 人口 一、〇八五 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南五ツ目、南六ツ目、南川外、南七ツ目の各一部の區域に當町を新設して三丁目迄を置く、町名の由來は既に市内に謡曲高砂より採れる尾上、住吉、常盤等の町名あるも高砂の名なかりしより、こゝに名付けたり。 ■二葉町 フタバチヤウ 世帯数 三三七 人口 一、五三五 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南五ツ目、南六ツ目、南七ツ目の各一部の區域に當町を新設し四丁目迄を置き、二葉町と命名せり。町名の由來は附近に大楠公に因める吉野町を立てしより、當町は小楠公をたゝへる「栴檀従二葉香」の語より採りて名付けたり。 ■新川町 シンカハチヤウ 世帯数 三〇三 人口 一、四五九 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南五ツ目、南六ツ目、南七ツ目の各一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く、昔地内に灌漑用の水路ありて、之を新川と呼ペり、當町は即ち其川筋なりしより採りて町名とす、同水路は廢され埋立らる。 ■吉野町 ヨシノチヤウ 世帯数 三一八 人口 一、五〇九 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南五ツ目、南六ツ目、南七ツ目の各一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く、町名の吉野は大楠公古事と又佳名なるを以て名付く。 ■山王町 サンノウチヤウ 世帯数 三〇七 人口 一、二九八 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月町界町名整理の際、、長島町七丁目、南吉田町北五ツ目、北六ツ目、北七ツ目と南七ツ目の各一部の區域内に當町を新設して五丁目を置く、地内に山王權現即ち日枝~社鎮座せるより斯く町名とせり。 ■南吉田町 ミナミヨシダチヤウ 世帯数 二七九 人口 一、二四一 元、吉田新田の内なり、市町村制施行の際、隣村戸部村、平沼新田、尾張屋新田、太田村と併せ戸太村を立て其大字となれり、明治二十八年七月戸太村は戸太町と改稱す、三十四年四月一日濱市に編入して南吉田町と改む、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田橋通を中心に、日枝~社脇より山王橋に至る、北五、六、七ツ目の各一部の區域を當町區域とし、一丁目より五丁目迄を置く、即ち吉田新田内にて吉田町よりは南に當れるより斯く町名に付せり。 ■眞金町 マガネチヤウ 世帯数 五六四 人口 二、七六六 元、吉田新田の内なり、明治十三年より高島町遊廓を此地に移す、明治十五年一月山田町、富士見町の各四、五丁目を眞金町と改め、一、二丁目を置き、佳名を以て名付く。 ■高根町 タカネチヤウ 世帯数 七二二 人口 二、九三二 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南四ツ目、南五ツ目の各一部の區域に當町を新設して四丁目迄を置く、町名の由來は百人一首山邊赤人の和歌「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪はふりつゝ」より採り佳名を以て名付く。 ■白妙町シロタヘチヤウ 世帯数 六一四 人口 二、五八〇 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南四ツ目、南五ツ目、南六ツ目の各一部の區域に當町を新設して五丁目迄を置く、町名は高根町と同じく百人一首山邊赤人の和歌より採る。 ■日枝町 ヒエチヤウ 世帯数 六一七 人口 二、三六九 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、末吉町七丁目、南吉田町北五ツ目北六ツ目、北七ツ目の各一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く。鎮守日枝~社の附近なるより採りて町名とす。 ■三吉町 ミヨシチヤウ 世帯数 四五二 人口 一、九九一 元、吉田新田の内なり、明治五、六年の新設と云ふ、縁起を祝ふて名付け、四丁目迄を置く。 ■睦町 ムツミチヤウ 世帯数 一、一七三 人口 四、八〇三 昭和十年七月一日町界町名整理の際、中村町字池ノ下、西ノ谷、蒔田町字西川外の區域に當町を新設し一、二丁目を置く。 ■浦舟町 ウラフネチヤウ 世帯数 五五七 人口 二、六一七 元、吉田新田の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、南吉田町南四ツ目、南五ツ目、南川外及び三吉町五丁目の各一部の區域に當町を新設し五丁目迄を置く、町名は高砂町と同じく、謡曲高砂より採る。 ■中村町 ナカムラチヤウ 世帯数 二、七二九 人口 一一、〇八六 元久良岐郡の内なり、古へ濱、堀之内と共に一村にて石川村と稱せしが、中古分れて各一村を立つと云ふ、コ川氏江戸入國後、村高五百十三石五斗五升一合七勺は御料所たりしが、元祿四年村内を裂きて佐野氏に賜ひ、御料私領入會せり其後又纔の地を、大岡川堀割の時潰地の代地として荒川某に賜ひたり、明治維新後~奈川縣の管轄となる。明治三十四年四月一日濱市に編入舊村名を町名に付す、昭和十年七月一日町界町名整理の際、字名を廢して丁目を設け、五丁目迄を置く。 ■八幡町 ハチマンチヤウ 世帯数 八四五 人口 三、〇二九 元、中村町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字八幡及び山谷の區域に當町を新設す、地内に八幡~社あるより採りて町名とす。 ■諏訪町 スハチヤウ 世帯数 七九 人口 三三七 明治六年一月、北方村の内、町並の整ひたる處に當町を新設す、地内に諏訪~社あるに因みて町名とす。 ■上野町 ウエノチヤウ 世帯数 七八二 人口 三、三〇四 明治六年一月、北方村の内町並の整ひたる處に當町を新設し、字名を町名とす、昭和三年九月一日町界町名整理の際、丁目を設け四丁目迄を立つ。 ■千代崎町 チヨザキチヤウ 世帯数 六五四 人口 二、七六一 明治六年一月、北方村の内町並の整ひたる處に當町を新設し一、二丁目を置く、昭和三年九月一日町界町名整理の際、北方町字竹ノ花の區域を併せて三、四丁目を立つ、町名の起りを詳にせず。 ■本ク町 ホンゴウチヤウ 世帯数 八三一 人口 三、六二〇 元、本牧町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、千代崎町電車停留場より市電線路を中心として、本牧町字上臺に至る區域に當町を新設し、一、二丁目を置く、更に昭和八年四月一日の整理に於て三丁目を設く、町名本クは舊村名より採る。 ■北方町 キタガタチヤウ 世帯数 四八七 人口 一、九〇一 元、北方村と稱し舊久良岐郡の内なり。コ川氏江戸入國以來、村高三百五十九石七斗七升四合は御料所となり、慶應元年~奈川奉行の預り地となす、市町村制施行の際、本牧ク村と併せて本牧村を立て、其大字北方とす、明治三十四年四月一日濱市に編入して北方町と改稱せり、昭和八年四月一日の町界町名整理の時、一、二丁目を置く。 ■本牧滿坂 ホンモクマンザカ 世帯数 七三 人口 三七九 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字滿坂、大久保の區域に當町を新設し、字名を採つて町名とす。 ■本牧鴻P丘 ホンモクミドリガヲカ 世帯数 六八 人口 二二四 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字長久保、滿坂、荒井、間門及び根岸町字矢口臺の各一部の區域に當町を新設す、地内丘陵多く、漉t風光を添ゆる地なれば佳名を以て町名に付す。 ■本牧町 ホンモクチヤウ 世帯数 二、三三七 人口 九、九二〇 元、本牧本ク村と稱して舊久良岐郡の内なり、コ川氏江戸入國後、村高八百八石七斗一升七合は御料所となりしが、元祿の頃、藤本筑後守、大久保大隅守、松浦酒造之亟等に賜はる、慶應元年~奈川奉行の預り地となす、明治維新後~奈川縣の管轄となる、市町村制施行の際、北方村と併せて、本牧本ク村を立て其大字となる、明治三十四年四月一日濱市に編入して本牧町と改む、昭和八年四月一日町界町名整理の時、舊字名を廢し、四丁目迄を置く、舊區域内に本牧荒井、本牧滿坂、本牧鴻P丘、本牧元町、本牧大里町、本牧三ノ谷、間門町、本牧和田、本ク町、本牧十二天等の諸町を立つ。 ■小港町 コミナトチヤウ 世帯数 五八二 人口 二、六六一 昭和八年四月一日、町界町名整理の際、北方町字小湊、泉、本牧町字箕輪下の各一部の區域に當町を新設して三丁目迄を置き、舊字名中の小湊を採りて町名に付す。 ■本牧十二天 ホンモクジフニテン 世帯数 一〇四 人口 四四九 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字十二天及び宮原の區域内に當町を新設し、字名を採りて町名に付す。 ■本牧元町 ホンモクモトマチ 世帯数 六五〇 人口 三、二九〇 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字牛込、八王子、八王子奥の各一部の區域に當町を新設す、此の邊昔本牧本ク村の元なりしといふ、採りて町名とす。 ■本牧大里町 ホンモクオオサトチヤウ 世帯数 一七三 人口 八〇六 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字下里、大谷戸、八王子奥の各一部の區域に當町を新設し、其大部の區域を占むる大谷戸、下里兩字の一字をとりて町名に付す。 ■本牧三之谷 ホンモクサンノタニ 世帯数 五八七 人口 二、七五三 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字三之谷、大谷戸、矢、下里、眞n宸フ各一部の區域に當町を新設し、三溪園を以て名高き字名三之谷をとりて町名に付す。 ■間門町 マカドチヤウ 世帯数 六一三 人口 二、六一四 昭和八年四月一日、町界町名整哩の際、本牧町字池田、眞n宦A配ク、一之谷、二之谷、向及び根岸町字池袋の各一部の區域に當町を新設し、一、二丁目を置き、字名間門を町名とす。 ■本牧和田 ホンモクチヤウ 世帯数 三一八 人口 一、五〇七 元、本牧町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字和田、池田の區域に當町を新設し字名中の和田を採りて町名に付す。 ■本牧荒井 ホンモクアラヰ 世帯数 八一 人口 四五一 昭和八年四月一日、町界町名整理の際、本牧町字荒井、間門及び根岸町字池袋の各一部の區域に當町を新設し、字名中の荒井を採りて町名に付す。 ■麥田町 ホンモクチヤウ 世帯数 五五九 人口 三、六五八 元、根岸町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字麥田、立野、鷺山、竹之丸及び北方町字上野の各一部の區域に當町を新設し、舊字名中の麥田を町名に付す。 ■妙香寺臺 メウカウジダイ 世帯数 一二二 人口 四七八 元、北方町の内なり、昭和十一年十一月一日町界町名整理の際、同町字上野、天沼の各一部の區域に當町を新設す、即ち妙香寺山の臺地なるより斯く町名に付す。 ■西之谷町 ニシノヤチヤウ 世帯数 三七一 人口 一、四九八 昭和八年四月一日、町界町名整理の際、北方町字西之谷及び本牧町字長久保、根岸町字矢口臺の各一部の區域に當町を新設し、舊字名中の西之谷を町名に付す。 ■大和町 ヤマトチヤウ 世帯数 三八四 人口 一、六四三 元、根岸村の内なり、此の地は開港後濱に駐屯の英佛兵に射的場として貸與せし處にて俗に鐡炮場と呼べり、明治四十二三年の頃、大和屋事石川清左衞門開きて町並となせり、大正元年本牧線の市内電車開通の際當町入口に停留所を設けて大和町停留所と名稱したり、昭和三年九月一日町界町名整理の時、根岸町の字立野、鷺山、竹ノ丸の各一部の區域に當町を新設し、石川氏の家號を採りて大和町と名付け、一、二丁目を置く。 ■立野 タテノ 世帯数 一三五 人口 四六五 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字立野、矢口臺、仲田、鷺山、竹ノ丸、仲尾の各一部の區域に當町を新設し、字名中の立野をとりて町名とす。 ■矢口臺 ヤグチダイ 世帯数 四八 人口 一八一 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字矢口臺の地域に當町を新設し其字名を町名に改む。 ■池袋 イケブクロ 世帯数 一六 人口 八九 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字池袋の地域に當町を新設し、其字名を町名に改む。 ■根岸町 ネギシチヤウ 世帯数 三三〇 人口 一、五三二 元、根岸村ち稱して久良岐郡の内なり、往昔平子庄なりしと、寶生寺所蔵、寶コ二年の文書にこの村名を載せたり、コ川氏江戸入國後は御料所たりしが其後村高七百五十九石二斗七升四合を、小濱佐右衛門、同三郎四郎、菅谷平八郎、藤本主計、松浦隼人等が祖先に分ち與へ、子孫の知行所なりしに、慶應元年~奈川奉行の預り地となれり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬して一村を立つ、市町村制施行後も一村たり、明治三十四年四月一日濱市に編入して根岸町と改稱せり、昭和二年十月一日其字中の芝生、西芝生、下、坂下、馬場、上の六字區域を西根岸町と改稱磯子區に編入す、昭和八年四月一日町界町名整理の際、磯子區西根岸町字下の一部の區域を當町字芝生臺に編入し、舊字名を廃し地内に十八ケ町を立つ、字加曾、加曾上、瀧ノ下、瀧ノ上の各一部の區域を當町として三丁目迄を置く、村名の起りは、此地西北山にして其根岸なれば則ち村名とすと武蔵風土記に見へたり。 ■根岸加曾臺 ネギシカゾウダイ 世帯数 一〇 人口 四九 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字加曾ノ上の區域に當町を新設し、字名に因み且つ臺地なるより名付く。 ■瀧ノ上 ダキノウヘ 世帯数 六二 人口 二一六 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字瀧ノ上、清水、豆口の各一部の區域に當町を新設し、舊字名を採りて町名とす。 ■豆口臺 マメグチダイ 世帯数 二〇四 人口 五九一 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字豆口、加曾ノ上、澤畑の各一部の區域に當町を新設す、其地域の臺地なるより字名に結びて町名に付す。 ■仲尾臺 バカヲダイ 世帯数 四二 人口 一九二 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字仲尾、瀧ノ上の區域に當町を新設す、其地臺地なるより字名仲尾に結びて町名とす。 ■竹之丸 タケノマル 世帯数 一四七 人口 五九七 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字竹之丸の區域に當町を新設し字名を採りて町名とす。 ■柏葉 カシハバ 世帯数 五八八 人口 二、二三五 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字柏葉の區域に當町を新設し、字名を採りて町名とす。 ■鷺山 サギヤマ 世帯数 二六五 人口 八八一 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字鷺山の區域に當町を新設し、字名を採りて町名とす。 ■打越 ウチコシ 世帯数 三九四 人口 一、六四二 元、中村町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字打越の區域に當町を新設し、字名を採りて町名とす。 ■唐澤 カラサハ 世帯数 六一五 人口 二、六一六 元、中村町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字唐澤、東、中居、平樂の各一部の區域に當町を新設し、字名中の唐澤を町名に付す。 ■平樂 ヘイラク 世帯数 三九三 人口 一、七六三 元、中村町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字平樂、中丸、山谷、八幡、中尾の各一部の區域に當町を新設し、字名中の平樂を採りて町名とす。 ■山谷 サンヤ 世帯数 八五 人口 三六四 元、中村町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字山谷、彌八ケ谷、山田、西の各一部の區域に當町を新設し、字名中の山谷を町名とす。 ■西竹之丸 ニシタケノマル 世帯数 二六六 人口 一、〇五三 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字西竹之丸、江吾田の區域に當町を新設し、字名中の西竹之丸を町名とす。 ■山元町 ヤマモトチヤウ 世帯数 一、三六五 人口 五、一四七 元、根岸村の内なり、明治六年一月町並の整ひたる處に當町を新設し、一、二丁目を置く、昭和八年四月一日町界町名整理の際、根岸町字江吾田、仲尾の一部を併せて五丁目迄となす、町名の由來を詳にせず。 ■大平町 オホヒラチヤウ 世帯数 二二二 人口 九一二 元、根岸町の内なり昭和八年四月一日、町界町名整理の際、同町字猿田、上猿田、塚越及び中村町字平樂の各一部の區域に當町を新設す。 ■大芝臺 オホシバダイ 世帯数 五七 人口 二一八 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字大芝、塚越の區域に當町を新設す、其地臺地なるより大芝臺と町名す。 ■簑澤 ミノサハ 世帯数 二〇四 人口 七五三 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字蓑澤、寺久保、大芝の各一部の區域に當町を新設し、字名中の蓑澤を町名とす。 ■塚越 ツカコシ 世帯数 一〇 人口 五〇 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字塚越、坂ノ臺各一部の區域に當町を新設し、字名塚越を町名とす。 ■寺久保 テラクボ 世帯数 二九 人口 一〇五 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町寺久保、坂ノ臺の區域に當町を新設し、字名寺久保を町名とす。 ■根岸臺 ネギシダイ 世帯数 二 人口 九 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字仲丸の區域に當町を新設す、其町名を仲丸とすべきに、同名の~奈川區にあれば之れを採らず、其地域は即ち根岸の臺地なるより斯く町名に付す。 ■根岸芝生臺 ネギシシガフダイ 世帯数 四一 人口 九六 元、根岸町の内なり、昭和八年四月一日町界町名整理の際、同町字芝生臺、寺久保及び西根岸町字下、西芝生の各一部の區域に當町を新設し、字名中の一つを採り根岸の芝生臺なるより斯く町名す。 ■三春臺 ミハルダイ 世帯数 八四一 人口 三、六九六 元、南太田町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字西中耕地、霞耕地、庚耕地の各一部の區域に當町を新設し、もと三春町の臺地なりしより佳名を以て三春臺と名付く。 ■庚臺 カノエダイ 世帯数 五六八 人口 二、五七五 元、南太田町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字庚耕地の區域内に當町を新設し、舊字名に因み且つ其區域は臺地なるより斯く町名に付す。 ■西中町 ニシナカチヤウ 世帯数 四〇八 人口 一、八八〇 元、南太田町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字西中耕地、東耕地、前里耕地及び霞町、英町、の各一部の區域に當町を新設す、其區域は西中耕地の大部なるより、西中の町名を付す。 ■前里町 マエサトチヤウ 世帯数 五三一 人口 二、三五六 昭和三年九月一日町界町名整理の際、初音町四丁目、英町、三春町の各三丁目、南太田町字前里耕地、西中耕地の各一部の區域に當町を新設し四丁目を置き、字名中の一つを採りて町名とす。 ■清水ケ丘 シミヅガオカ 世帯数 六一六 人口 二、四二六 元、南太田町の内なり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、同町字清水耕地、富士見耕地、大原耕地、大丸耕地の各一部の區域に當町を新設し、舊字名の清水耕地に因み町名に付す。 ■南太田町 ミナミオホタマチ 世帯数 一、二七八 人口 五、七三三 元、太田村と稱して久良岐郡の内なり、古へは六浦庄を唱へしと云ふ、コ川氏江戸入國後村高六百七十二石九斗七升四合は御料所にて其内纔に東n尢フ交れり、村内を三組に分け、西組、中組、原組と稱したり、慶應元年當村を~奈川奉行の預り地となす、維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村、戸部村、平沼新田、尾張屋新田、吉田新田と共に戸太村を立て其大字太田となり、明治二十八年七月戸太村を戸太町と改稱す、明治三十四年四月一日濱市に編入して南太田町と改む、即ち關内に太田町のあるより南の一字を加へたり、昭和十年七月一日町界町名整理の際、其字名を廢し、地内に霞ケ丘、東ケ丘、赤門町、三春臺、庚臺、清水ケ丘等の諸町を新設せり、而して字富士見耕地、清水耕地、上耕地、谷戸耕地及び井土ケ谷町字高免、川田の各一部の區域を當町の地域として四丁目迄を置く、村名の起りは昔此地に太田持資入道道灌の屋敷ありし故、太田の地名起りしと云ふ。 ■花之木町 ハナノキチヤウ 世帯数 二七〇 人口 一、三一七 昭和三年九月一日、町界町名整理の際、蒔田町字矢畑、一本松、耕地、井領田、下ノ前、蒔田橋及び南吉田町字西川外の各一部の區域に當町を新設し、三丁目迄を置く、地内の小名に花之木(應永二十四年寶生寺文書に見ゆるもの)あり採りて町名に付す。 ■宿町 シクチヤウ 世帯数 五六八 人口 二、五八八 昭和三年九月一日、町界町名整理の際、蒔田町字一本松、井領田、一ノ坪及び南吉田町字西川外の各一部の區域に當町を新設し、四丁目迄を置く、當町邊は元蒔田村の中心地にて俗に宿と呼びしより採りて町名に付す。 ■宮元町 ミヤモトチヤウ 世帯数 五八五 人口 二、六四五 昭和三年九月一日、町界町名整理の際、蒔田町字堂面、廻り坪、六反目、井領田、三反田、宮ノ脇、宿、一ノ坪、山ノ根、南吉田町字西川外、大岡町字釜田の各一部の區域に當町を新設して四丁目迄を置く、地内に鎮守杉山~社鎮座するより斯く町名とす。 ■共進町 キヤウシンチヤウ 世帯数 六二五 人口 二、九二六 昭和三年九月一日、町界町名整理の際、蒔田町字堂面、廻り坪、六反目、榎木坪、居尻、三反田門田、南吉田町字西川外の各一部の區域に當町を新設して三丁目迄を置く、當町の地は大正二年十月共進會を開催せし事あるより採りて町名とす。 ■榎町 エノキチヤウ 世帯数 五九五 人口 二、三〇八 元、蒔田町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字六反目、廻り坪、榎木坪、町田、居尻、五反目、東谷、八反目の各一部の區域に當町を新設し、一、二丁目を置き字名中の榎木坪より採りて榎町と名付く。 ■井土ケ谷上町 ヰドガヤカミマチ 世帯数 四〇四 人口 一、六九〇 元、井土ケ谷村と稱して久良岐郡の内なり、古へ當村及び弘明寺、中里、別所、最戸、久保の六ケ村を通して多々久クと唱へ小机庄なりしと云ふ、小田原北條の頃は其家人森新三郎知行せり、コ川氏に至り御料所なりしが、其後元祿四年より聖堂領となる、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て、其大字井土ケ谷となる、明治四十四年四月一日濱市に編入して井土ケ谷町と改稱す、昭和十一年十一月一日町界町名整理の時、其字名を廢し上・中・下の三ケ町を立て舊字坂本、永田下、町田、法心下及び四反町の一部を當町區域とし井土ケ谷上町とせり。村名の起りは此地殊に地窪なるゆゑ井土ケ谷の名起りしと云ひ、或は鎌倉将軍時代村内に清冽の井戸ありしゆゑ村名起りしとも云ふ。 ■井土ケ谷中町 ヰドガヤナカマチ 世帯数 六一五 人口 二、八五七 元、井土ケ谷町の内なり、昭和十一年十一月一日町界町名整理の際、同町字八反目、沖田、久傳高免、宿ノ前、鰯袋、鶴巻、四反町の各一部及び南橋の區域に當町を立て井土ケ谷中町と名付く其他沿革は前町に同じ。 ■井土ケ谷下町 ヰドガヤシモマチ 世帯数 一、一〇一 人口 四、八七四 元、井土ケ谷町の内なり、昭和十一年十一月一日町界町名整理の際、同町字宮ノ前、十二天脇、蒔田橋、宿ノ前、鶴巻、鰯袋、下ノ前、矢、宿村、高免、沖他、久傳、川田、八反目の區域に當町を立て井土ケ谷下町と名付く其他の沿革は前町に同じ。 ■弘明寺町 グメイジチヤウ 世帯数 六〇九 人口 二、七一二 元、弘明寺村と稱して久良岐郡内なり、古へク庄の唱へは最戸に同じ、コ川氏江戸入國後、村高三十九石一斗五升二合は御料所なりしが、元祿四年聖堂領に附せられ、林大學頭進退したるも後代官の支配となる、維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村、と共に併せ大岡川村を立て、其大字弘明寺とす、明治十四年四月一日濱市に編入して弘明寺町と改稱したり、昭和十二年四月一日中里町字沼尻並に上大岡町字七枚畠の一部を當町に編入せり、村名の起りは、此邊古は井土ケ谷村の内に隷せしが、中古井土ケ谷の地を分ちて數村とせしとき、この村弘明寺觀音の梵刹ありしによりかく名づけたりと云ふ。 ■大橋町 オホハシチヤウ 世帯数 二二八 人口 九九一 元、大岡町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字大橋詰、中島、北ノ前、堰ノ上、前田の區域内に當町を新設し三丁目迄を置き、舊字名中の大橋を採りて町名とす。 ■中島町 ナカジマチヤウ 世帯数 五六四 人口 二、二六五 昭和三年九月一日、町界町名整理の際、大岡町字中島、釜田、鰯袋、大橋詰、樋ノロ及び蒔田町字一ノ坪の各一部の區域に當町を新設し四丁目迄を置き、舊宇名中の中島を採りて町名とす。 ■通町 トホリチヤウ 世帯数 四七八 人口 二、一七四 元、大岡町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字通町、釜田、大橋詰、中島、宮ノ前、樋ノロの各一部の區域に當町を新設し四丁目迄を置き、舊字名中の通町を町名とす。 ■若宮町 ワカミヤチヤウ 世帯数 三七九 人口 一、六五一 元、大岡町の内なり、昭和三年九月一日町界町名整理の際、同町字石畠、宮ノ前、通町の各一部の區域に當町を新設し四丁目迄を置く、地内に若宮八幡宮の鎮座せるより採りて町名とす。 ■蒔田町 マイタチヤウ 世帯数 四四六 人口 一、九六二 元、蒔田村と稱して久良岐郡の内なり、小田原北條の頃は吉良氏の所領にて其居蹟あり、コ川氏に至り村高三百二十九石六斗三升一合は御料所なりしが、正コ二年村内を裂きて、大久保大隅守に賜はり、御料私領入會となり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て其大字蒔田とす、明治四十四年四月一日横濱市に編入して蒔田町と改む、昭和三年九月一日町界町名整理の際、其地内を當町の外、共進、花ノ木、榎、宮元、宿の五ケ町に分割せり、即ち舊字中の會下、西、山ノ根、原、伊勢山、東谷、谷戸田、谷戸田上の各一部を當町區域とす、村名の起りを詳にせず。 ■堀之内町 ホリノウチチヤウ 世帯数 一、〇一七 人口 四、三六六 元、堀之内村と稱して久良岐郡の内なり、古へ當村及び中村、濱の三村を合せて石川村と唱へしが中古分村せし事は中村町の條に辯ずる如し、コ川氏に至り村高百十四石八斗九升三合一勺は御料所にて、明治維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て、其大字堀之内とす、明治四十四年四月一日濱市に編入して堀之内町と改む、昭和十年七月一日町界町名整理の際、其字名を廢して一・二丁目を置く、村名の起りを詳にせず。 ■東蒔田町 ヒガシマイタチヤウ 世帯数 六一三 人口 二、四三六 昭和十年七月一日、町界町名整理の際、蒔田町字堂面、雑色、中村町字池ノ下、堀之内町字石畠南吉田町字西川外の各一部の區域に當町を新設す其地域は蒔田町の東に當り且つ元蒔田町の大部の斗なるより、東蒔田町と名く。 ■大岡町 オホオカチヤウ 世帯数 一、四六七 人口 六、二八四 元、下大岡村と稱して久良岐郡の内なり、古へは大岡ク平子庄と唱へ、上大岡村と一村にて土人おほが村と稱す、正保の改めには未だ上下の別なく、元祿のク帳より二村に分ち記すと云ふ、コ川氏に至り、村高四百五十五石一斗四升五勺は始め御料所たりしが、後ち佐野肥後守が祖先に賜ひ子孫世々知行所たり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村時田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て、其大字下大岡となす、明治四十四年四月一日横濱市に編入して大岡町と改稱す、昭和三年九月一日町界町名整理の際、地内に大橋町、中島町、若宮町、通町の四ケ町を新設し、字釜田の一部を宮元町に分割せり、村名の由來を詳にせず。 ■永田町 ナガタチヤウ 世帯数 四七〇 人口 二、一七七 元、永田村と稱して久良岐郡の内なり、古へ低き處には海水浸入し居りたりと見へ、天正、元和頃の年貢皆濟目録には鹽を以て貢錢にかへ納めし事舊記に見へたり、小田原北條の頃には、其家人肥田中務亟の知行する處にて小田原役帳に「宅間殿五十貫文、久良岐郡長田肥田中務亟」とあり、コ川氏に至り村高四百二十四石八斗六升三合は御料所にて、明治維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て其大字永田とす、昭和二年四月一日濱市に編入して永田町と改む、村名の起りを詳にせず。 ■六ツ川町 ムツカハチヤウ 世帯数 一三四 人口 七九四 元、引越村と稱して久良岐郡の内なり、古へは弘明寺町、中里、別所、最戸、久保合せて多々久クと唱へ一クなりしが、其後五ケ村に分れし時、其村々の民引越して一村をなしたればこの名ありといへる由武蔵風土記に見ゆ、コ川氏江戸入國以來村高百七十三石三斗一升九合は御料所にて、明治維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に大岡川村を立て其大字引越となる、昭和二年四月一日濱市に編入して六ツ川町と改稱せり、町名に六ツ川と附せしは前記の如く宮村及弘明寺、中里、別所、最戸、久保と一村なりしを後ち六ケ村に分れしと、又市町村制施行の時大岡川村となりしに因み、六ツ川町と名付けたり。 ■中里町 ナカザトチヤウ 世帯数 一五一 人口 六七二 元、中里村と稱して久良岐郡の内なり、古へ弘明寺、中里、別所、最戸、久保と合せて多々久六ケクと唱へ一クなりしに後分村して一村を立てしと云ふ、又當村はもと井土ケ谷村に隷し、多々久六ケ村の内、中程の村なる故にこの唱へ起れる由武蔵風土記に載せたり、コ川氏江戸入國後、村高百九十一石七斗七升九合は御料所たりしが、元祿四年其内を裂きて、聖堂領に附せられ、其餘は元祿十年荒川新右衛門に賜り子孫世々知行せり、維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、最戸村、久保村、別所村、上大岡村と共に大岡川村を立て其大手中里となす、昭和二年四月一日濱市に編入して中里町と改む。 ■最戸町 サイドチヤウ 世帯数 五一 人口 三一五 元、最戸村と稱して久良岐郡の内なり、古へ多々久ク小机庄に屬し、當村及び弘明寺、中里、別所、久保と合せて一村なりしを、後分村せりと、又當村は宍戸村又は鹿戸村などと書きし事ありしと云ふ、コ川氏江戸入國後、村高百六十六石一斗五合は御料所なりしが、元祿四年聖堂領に附せられ、寛政九年御代官の司る所となれり、維新後~奈川縣の管轄となる、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、久保村、別所村、上大岡村の諸村と共に併せて大岡川村を立て其大字最戸となる、昭和二年四月一日濱市に編入し舊村名を採りて最戸町と改む、昭和十二年四月一日別所町字砂押並に上大岡町字千保の一部を當町に編入せり、村名の起りをきかず。 ■大久保町 オホクボチヤウ 世帯数 一三〇 人口 六二七 元、久保村と稱して久良岐郡に屬せり、古へ多々久ク小机庄と唱ふ、當村及び弘明寺、中里、別所、最戸と一村なりしを、後ち分れて一村を立てしと云へり、コ川氏江戸入國後、村高二百十九石九斗七合は御料所となり、明治維新後~奈川縣の管警となれり、市町村制施行の際、隣村下大岡村蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、上大岡村と共に大岡川村を立て其大字久保となる、昭和二年四月一日濱市に編入して大久保町と改稱せり、町名に大の字を附せるは、區内に久保町あるより、舊村名大岡川村の頭字を冠して大久保町とせり。 ■別所町 ベツショチヤウ 世帯数 七四 人口 三六一 元、別所村と稱して久良岐郡の内なり、古へ多々久ク小机庄の内にて、弘明寺、中里、最戸、久保と共に一村なりしを、後ち分れて一村を立てたるものと傳へり、コ川氏江戸入國後、村高二百五十石六斗三合は御料所なりしを、元祿十二年安藤平七郎、加藤彌次郎の二人に賜はり、子孫世々知行せり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、上大岡村、久保村と共に大岡川村を立て其大字別所となす、昭和二年四月一日濱市に編入舊村名を採りて町名に付す、昭和十二年四月一日中里町字向田並に最戸町字沼の一部を當町區域に編入せり、村名の起りを詳にせず。 ■上大岡町 カミオホカチヤウ 世帯数 四四三 人口 一、九一六 元、上大岡村と稱して久良岐郡の内なり、古へ平子庄に屬し、土人多くはおほが村(大賀)と稱せりと、正保の頃は下大岡と一村なりしを、元祿の頃より上・下二村に分つと云ふ、小田原北條の頃は其家人荻野某知行す、コ川氏江戸入國後、村高三百二十石二斗一勺は御料所たりしを、元祿十一年荒川丹波守に賜ひ、又其後一部を倉橋某に賜はり子孫世々知行す、維新後は~奈川縣管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村下大岡村、蒔田村、堀之内村、井土ケ谷村、永田村、引越村、弘明寺村、中里村、最戸村、久保村、別所村と共に大岡川村を立て、其大字上大岡とす、昭和二年四月一日濱市に編入、舊村名を採りて町名とす。 ■笹下町 ササゲチヤウ 世帯数 三八一 人口 三、三四二 元、雑色、松本、關の三村の地にて笹下村と稱し久良岐郡の内なり、古き沿革につきて武蔵風土記は次の如く載せたり、「杉田ク六浦庄に屬せり(松本村は笹下クにて庄名は雑色、關に同じ)正保の國圖に此邊上ク、下クの名を載せ、元祿の圖には田中、峯、矢部野、栗木の四村を載せて各上クと傍に記し、又雑色、松本、關の三村を載せ共に下クと傍記す、されば、元祿前上下二クを分ち七ケ村となし、當村(雑色)元は下クと唱へし事しらる、土人の傳へに往昔上ク四村を上笹下と唱へ下ク三村を下笹下と唱へしといへば、上ク、下クの唱へは上笹下ク、下笹下クの中略なるべし、されば今も七ケ村の地、多くはク名に笹下を以て唱へり、當村(難色)及關村のみ杉田のクを唱ふるは、後世他のク名の波及せしならん」とあり、此地小田原北條の頃は、其家人間宮豊前守信元の領地なりしが、コ川氏江戸入國後は其三村共に御料所となりしも、雑色村、村高二百三十三石九斗九升九合は寛文二年久世大和守の領分となり、同九年再び御料に復し、元祿六年柳澤出羽守の領分となり、翌七年又御料所に復せり、松本村、村高五百五石六斗四升五合は、元祿九年服部某、松風某藤川某の三給に分ち、子孫世々知行せり、關村、村高二百三十石六斗五升五合は、元祿十一年加藤源太郎に賜はり子孫の知行所たり、維新後は共に~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村日野村、矢部野村、田中村、栗木村、上中里村、峯村、氷取澤村の諸村と共に日下(ヒノシタ)村を立て、其大字笹下となる、昭和二年四月一日濱市に編入して笹下町と改稱せり、町名笹下の起り詳ならず寛永二年間宮左衛門尉敦信より森中原村泉藏院に與へし御靈權現社の勧請、再興の文には、武州久良岐郡杉田庄佐々氣村御靈宮天文年中開基願主同國橘郡川崎堀之内城主佐々木間豊前守源信元云々とあり、佐々氣、佐々木、笹下と通じて間宮氏の佐々木を地名とし、之れが後笹下と轉化せしならんとの説を土人言へり。 ■日野町 ヒノチヤウ 世帯数 二九三 人口 一、六四二 コ川時代は、宮ケ谷、宮下、金井、吉原の四村なりしも、後ち合せて日野村と稱し久良岐郡の内なり、古へ此邊日野ク六浦庄と唱へて一村なりしを、中古宮ケ谷、金井の二村に分ち、更に金井村を分ちて吉原村を立て、宮ケ谷村を割きて宮下村を立つ、この四ケ村を日野四ケ村と呼べり、正保の頃までは、各村の上に日野の二字を冠して唱へたりと、宮ケ谷村の地は、小田原北條の頃、幼庵御知行、又、御新造知行とあり、コ川氏江戸入國後村高二百九十一石三斗九升七合は御料所たりしが、寛文四年四月久世大和守に賜はり子孫知行所たり、金井村も始めは御料なりしが、宮ケ谷村と同時に久世大和守に賜はり、夫より丹後守に分地知行せり、宮下村も金井と同じく久世氏の所領たり、吉原村の地は御代官所なりしが、いつの頃よりか上原某に賜ひ子孫の知行所たり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村、笹下村、矢部野村、田中村、栗木村、上中里村峯村、氷取澤村の諸村共に日下村を立て其大字日野となる、昭和二年四月一日濱市に編入日野町と改稱したり、村名の起りを詳にせず。 ■野庭町 ノバチヤウ 世帯数 六四 人口 四三六 元、上野庭村、下野庭村二村の地にて、相模國鎌倉郡の内なり、古へは東郡山之内庄に屬して永谷ク野場村と稱す、後ち小坂郡に屬せしが、延寶の頃鎌倉郡に編貫され、野場村を改めて野庭とし上下二村に分てる、コ川氏江戸入國後、上野庭の地、高三百八十五石餘は御料所たりしが、寛政三年三百四石餘を井上左太夫に、八十石餘を高林與五衛門に賜はり、文化八年一村を挙げ松平肥後守の領地に轉じ、又文政四年松平大和守、嘉永七年細川越中守、文久三年堀田相模守、慶應三年御料としばしば變遷せり、下野庭村も上野庭村と同じく初めは御料所なりしが、いつの頃よりか牟禮遠江守、上原元治郎、藤本主計に分ち與へ、文化八年松平肥後守、文政四年松平大和守の領地に變遷し維新後~奈川縣管轄に屬せり、市町村制施行の際、隣村永谷村及び平戸村飛地と共に永野村を立て其大字上野庭、下野庭とせり、昭和十一年十月一日濱市に編入して野庭町と改稱す、村名の起り詳ならず。 ■上永谷町 ナガヤチヤウ 世帯数 六二 人口 三六九 元、永谷村と稱し相模國鎌倉郡の内なり、古へ東郡山之内庄に屬し、永谷クと稱せしを後ち小坂郡に屬し、コ川氏に至り延寶年中鎌倉郡に編貫し、分割して永谷上村、永谷中村、永谷下村の三村を立てたり、コ川氏江戸入國後、永谷上村の地は石高二百四十二石與は御料所たりしが、寶永五年山田立長、齋藤喜六郎、鈴木兵部に分ちたり、文化八年三月一村を挙げて松平肥後守に與へ、更に文政四月三月蜷川相模守の知行所となる、永谷中村石高四百四十六石餘は、彦坂小刑部支配し子孫世襲して明治に及べり、永谷下村石高九十三石餘は初め御料なりしを、寶永五年蜂屋孫十郎に賜ひ文化八年三月松平肥後守の領地に轉じ、又文政四年三月に至り蜷川相模守の知行所に變れり、維新後~奈川縣の管轄に屬し上中下三村を合せ永谷村と改む、市町村制施行の際、上野庭村、下野庭村及び平戸村飛地と共に永野村を立て其大字となる、昭和十一年十月一日濱市に編入し、地内を上下に區分し、舊村名を採り上永谷町、下永谷町の二町を立つ、即ち大字永谷の内小字水田、半在家中里、龍森、鳥越、天~前、六反田、西洗、又口、深田、丸山、永作、九日免及び大字平戸の内小字西洗を當町區域とす。 ■下永谷町 シモナガヤチヤウ 世帯数 一一七 人口 七一〇 當町の沿革は上永谷町に同じ、元、永野村大字永谷の内小字池田、芹ケ谷、山谷、渡戸、角田、松原、長町、尾崎、鳥打、鍋谷、八木、町田及び大字平戸の内小字芹ケ谷、野畑を當町區域とす。 |