港 北 區

■中山町 ナカヤマチヤウ   世帯数 一七六   人口 八四七
  元、中山村と稱して都筑郡の内なり、古へは師岡庄小机領の内にて榎下村と稱せしに慶長九年分クして一村をなし中山村となる、コ川氏の始めには比企□右衞門知行せし由舊記に見へたりコ川氏江戸入國後の正保の頃村高二百九十二石は旗下植村五郎右衞門の知行所となりしが、其後上知して御料に代り代官の支配となりしに、いつの頃か高尾學之亟の知行に代り、明治維新後は~奈川縣の管轄になる、明治二十二年町村制施行の際、隣村十日市場村、榎下村、久保村、寺山村、臺村、上猿山村、下猿山村、鴨居村、本ク村、上菅田村、新井新田及び當村の十二ケ村を併せ新治村を立て其大字中山となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りは詳かならざれど土人の説には村内中央は丘陵地なるより中山と村名せしと言ふ説あながち捨て難しと云ふべし。

■十日市場町 トウカイチバチヤウ   世帯数 九七   人口 四四五
  元、十日市場村と稱し都筑郡の内なり、古は榎下村の内なりしを慶長九年分クして一村となれり、其頃は師岡庄小机領なりしに中古よりは~奈川領に代れりコ川氏の始めには比企藤右衞門知行せり、其後いつの頃か村高二百七十石六斗を旗下鈴木某細井某の両名に頒てり、細井所領の分は寶暦の頃其弟某に分地し三給入會へり、明治維新後は~奈川縣の管轄となる、明治二十二年の町村分合改稱は中山町の條と同じく新治村を立て其大字十日市場となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名とせり村名の起りは、昔此所に毎月十日市立ちしにより村名となると云ふ。

■新治町 ニヒハルチヤウ   世帯数 六七   人口 四一八
  元、榎下村と稱して都筑郡の内なり、室町時代には現在の三保町舊城寺境内及附近に上杉憲直城を構へて居城せし事史實に明らかなり、之の城久保村にあるを榎下城と云ひしは昔久保、寺山、臺、中山、十日市場、小山、青砥など一村にて榎下村と呼びしによる、然るに慶長九辰年分クして八ケ村となれり、其頃は小机百八クの内にて小机庄榎下村と呼び前記七ケ村の元クなり小田原北條氏の頃は上杉景虎所領す、コ川氏に至りて村高二百五十三石六斗七合の内二百三十四石餘を慶長の頃比企藤右衛知行せし事舊記に見ゆ、元祿九年故ありて収公し御料とせしが同十五年醫師頭謙光院法印に賜はりしに、其子孫道壽の時享四年又事ありて上知し以來御料となりて代官の支配となれり、明治維新の際~奈川縣管轄に屬す、明治二十二年町村制施行の際に於ける變遷に中山村の條に記せし如く新治村を立て其大字榎下となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し編入前の村名を採りて新治町とす、新治は即ち町村分合改稱を實施の際、十二ケ村を併合し村名を立つるに當り新たなる村名の幸先を祝して名付けしと云へり、他町の例にならへば當町は榎下町と命名すべきに新治町と改めしは古へ近村の元クなりし事より今又元の村名を當町に殘して親クを記念すべく斯く名付けたるなり。

■三保町 ミホチヤウ   世帯数 一一〇   人口 六四五
  元、久保町と稱して都筑郡の内なり、古へは小机領にて榎下村の内なりしを慶長九年分クして一村をなせり、當所には室町時代上杉憲直今の舊城寺の地に城を構へ在城せし事史上に明かなり、コ川氏に至り比企藤右衛門知行所とありしが正保の頃村高百八十一石三斗四升二合の内を裂きて植村五郎右衛門に賜はる元祿九年比企家は故ありて廢家となりしより、之れを柳澤出羽守領となせしが間もなく上知し同十一年朝倉靱負に賜ひしも同十六年に至りて醫師頭謙光院法印の釆邑に賜はりしが之れ又延享四年十一月其孫道壽の時不都合の故ありて没収し御料とせり其後文化九年西尾藤四郎、富士又一郎の兩名に頒ち與へたり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年の町村分合改稱の際は中山町と同じく新治村を立て其大字久保となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し三保町と改む、町名を三保とせしは中區に既に久保町あれば前字名を採る能はず久保の地は三つの谷戸よりなる處にて享保の初め三谷戸の村民、融和を缺き訴訟出入等を起し遂に村内二分に分かるゝ等の不詳事あり今町名を付するにあたり てほ享保の不吉を除き三谷戸新睦融和互助の精神を表現すると共に舊村名の一字を殘し、且つ明朗發展を祝して三保町とせり。

■寺山町 テラヤマチヤウ   世帯数 八○   人口 四八○
  元、寺山村と稱して都筑郡の内なり、之の村も古へは榎下村の内なりしに慶長九年分クして一村となれり、コ川氏江戸入國後比企藤右衛門の釆邑となりしが正保の頃村高百四十七石を山本平九郎の知行所に代りしが間もなく御料となれり、其後元祿の頃よりは又小濱某、菅谷某の兩名に賜はりて子孫世々之れを知行す、明治維新後は~奈川縣の管轄となる、明治二十二年の町村分合改稱の際の變遷は中山町の條と同じく十二ケ村合併して新治村を立て其大字寺山となる昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し昔の村名を採りて町名に付せり、村名の由來を傳へず。

■臺村町 ダイムラチヤウ   世帯数 六八   人口 四一ニ
  元、臺村と稱し都筑郡の内なり、慶長以前は榎下村の内なりしを同九年分クして山村となれり、小田原北條氏の頃は笠原氏の所領地たり、コ川氏に至り村高二百石は比企藤右衛門の知行所となりしが其後又笠原氏の知行に復し子孫世々之れを襲げり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明冶ニ十二年町村分合改稱の際に於ける變遷は中山町の條と同じく十二ケ村合併して新治村を立て其大字臺となる昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し、昔の村名を以て町名に付せり、村名の起りは村の地高低山林打交り西南部はすべて臺丘をなし、民家は之の臺丘にありしより斯く村名に附せりと口碑に傳はれり。

■上山町 カミヤマチヤウ   世帯数 三七   人口 一七九
  元、上猿山村と稱し都筑郡の内なり、文化の頃迄は今の白山町の地も之の村の内なりしを其後上下二村に分つと云ふ、小田原北條氏の頃には上杉景虎知行せし由役帳に載せたり、コ川氏に至り村高四百五十六石は寛永年中大猷院殿品川にて武器御覧の時、佐野次郎兵衛政長武器の嗜ありて数多貯へしことを賞せられて當村及佐江戸の二村を賜はり子孫世々知行せし事風土記に見ゆ、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年の町村分合改稱は中山町の條に同じく新治村を立て其大字上猿山とす昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す町名を付するに當り大字上猿山全區域と大字下猿山の内字平臺の一部を當町區域とし上山町と改稱す、町名に其大字名を存置すべきも舊名猿山即ち猿は去るに通じ縁起宜しからざるより之の字を除き上山町とせり、舊村名の起りを傳へざれど、或ほ曰く古へ之の邊り山林深く猿数多群棲せるより之の名起りしにはあらざるかとの説は強ち捨て難き説なるべし。

■白山町 ハクサンチヤウ   世帯数 四七   人口 一八〇
  當町の古き沿革は上山町に同じく古へは猿山村と稱せしを、文政の頃分村して下猿山村となれり、明治二十二年の町村制實施に於ける變遷は中山町の條と同じく新治村を立て其大字下猿山となる、、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す、町名を付するに當り大字下猿山の内字平臺の一部を上山町に頒ち殘餘を當町區域とし白山町と改稱せり、當町も他町の例によれば大字名を町名とすペきに上山町に述べたる如く猿は去るに通じ縁起宜からざれば之を採らず、地内に靈験著なる鎮守白山~社名に因み町名とせり。

■鴨居町 カモヰチヤウ   世帯数 九九   人口 六四五
  元、鴨居村と稱して都筑郡の内なり、小田原北條氏の頃は上杉景虎の所領地なり、コ川氏に代りて村高三百九十六石餘は、正保の頃旗下辻右馬之助に賜はりしが、天和三年御料となり、元祿四年柳澤出羽守領に轉じ、同七年再び御料に復し、其一部を星合攝津守に賜ひ其餘の殘地は寶永三年久志本左京に、更に若干の新田は御料にて代官支配せり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱の際の變遷は中山町の條と同じく新治村の大字鴨居となる昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■東本ク町 ヒガシホンガウチヤウ   世帯数 六四   人ロ 四二三
  元、本ク村と稱して都筑郡の内なり、古き頃には小机庄なりしと云ふ、小田原北條氏家人所領役帳には小机本クとしるせり、之より見れば其昔は今の小机を通じ一村なりしならん、其中にも之の村の方、本にして小机はかへって後に開けし地なるべしと武藏風土記は記せり、又古へ小机百八クの親村にて小机の本村なりしとも云へり、小田原北條氏分國の頃は上杉景虎の知行所にて高百九十九貫四百三十文の内二十三貫文は蔭山又六と云ふもの代官せり、コ川氏に代りて村高三百五十三石の内二百石を大阪陣に功ありし遠山P兵衛に賜はる、又いつの頃か殘餘の地の一部を堀平七郎の釆邑に賜ひ御料私領入會せり、明治維新後の變遷は中山町と同じ新治村の大字本クとなる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し東本ク町と町名す、町名を付するにあたり本ク町とすべきに、中區に本ク町あれば同名を立つる能はず、當所は東に當れば字名の上に東を冠し以て舊村名を存置せしなり。

■上菅田町 カミスグタチヤウ   世帯数 六六   人口 四一六
  元、菅田村と稱して都筑郡の内なり、古は小机クとも云ひて小机百八ケ村の一なりしと云ふ、コ川氏江戸入國後村高百七十三石九斗五合は正保の頃旗下山本平八郎の知行となりしが、いつの頃か御料となり、文化八年久良岐郡金澤へ砲臺築造するより其所の地頭山名熊五郎が釆邑を収公せしため、之の村の内を割きて別に賜ひ御料私領入會となれり、明治維新後の變遷は中山町の條と同じく新治村の大字上菅田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■新井町 アラヰチヤウ   世帯数 二○   人口 二二一
  元は新井新田と稱し都筑郡の内なり、昔之の地は公儀の御林なりしを、~奈川宿の人新井忠兵衛と云ふもの寶暦年中開發してより新井新田と唱へ御料所となり代官支配地となる、明治維新後の變遷は中山町と同じく新治村を立て其大字となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名の新井を採りて町名に付せり、新井は即ち開發者の姓なり。

■恩田町 ヲンタチヤウ   世帯数 二八〇   人口 一、七九二
  元、恩田村と稱し都筑郡の内なり、P谷町妙光寺の鐘銘に正中二年武州恩田云々とあるより見れば此村最も古き頃開かれし事知らる、而して古へは師岡庄に屬すと云ふ、小田原北條氏の頃には上杉景虎知行せり、コ川氏に至り村高千九十二石は正保の頃、醫師岡本玄琳、清水龜庵、坂春也、齋藤攝津守、井戸起兵衛等五給の外にコ恩寺領もあり龜庵の分はいつの頃にか上知となり一旦御料となり、元祿十三年之を星合某に又齋藤攝津守の釆地は淺岡某及醫師船橋某の知行所となり、坂春也の釆地は其子孫壽三の時故ありて公収し之れを柳澤某に賜はり寺領と共に七給に及ぺり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を實施せる際隣村奈良村、長津田村と共に併せて田奈村を立て其大字恩田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の由來を傳へず。

■奈良町 ナラチヤウ   世帯数 一一四   人口 六六〇
  元、奈良村と稱して都筑郡の内なり、此村開發の事は傳へざれど、小田原北條家役帳に小机奈良岡上三十七貫二百八十二文、大普請の時半役可致之s四郎衛門と記したり、されば永祿の頃ははや開けし事しるペし、と武藏風土記は載せたり、コ川氏に至り正保の頃村高三百七十二石は石丸石見守が釆邑にて子孫世々之れを襲へり、明治維新後の變遷は恩田町の條と同じく田奈村大字奈良となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付す、村名の由來を傳へず。

■長津田町 ナガツタチヤウ   世帯数 三九五   人口 二、一九三
  元、長津田村と稱して都筑郡の内なり、小田原北條氏分國の頃は、古河公方の料所なりし事役帳に見ゆ、コ川氏江戸入國後村高九百九十八石九斗七升三合八勺は天正十九年岡野平兵衛房恒に賜はり子孫世々知行せり、明治維新後の變遷は恩田町に同じく田奈村大字長津田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名とす、村名の起りを傳へず。

■下谷本町 シモヤモトチヤウ   世帯数 一〇九   人口 六五二
  元、下谷本村と稱して都筑郡の内なり、古へは師岡庄に屬せり此村いつの頃か吉濱大膳なるもの開發せしと云ひ傳へり、コ川氏に至り村高三百七十五石は天正二十年三月松波平右衞門勝富の采邑に賜ひ子孫世々之を知行せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治ニ十ニ年町村分合改稱實施の際、隣村寺家村、鴨志田村、成合村、上谷本村、鐡村、黒須田村、大場村、市ケ尾村、北八朔村、西八朔村、小山村、砥村、下麻生村飛地と共十四ケ村えお併せ中里村を立て其大字下谷本となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■寺家町 ジケチヤウ   世帯数 三五   人口 一七六
  元、寺家村と稱して都筑郡の内なり、天正頃の文書に村名見へたれば古くより開けし地なるペし此村古き領主の名を傳へず、コ川氏に至り正保の頃、村高百九十八石の内其一部をさきて旗下筧三郎左衛門正重に賜ひ、他は御料となせり、私領の方は筧喜太郎の代に至り、同族筧半兵衛に分割し二給ととなり子孫世襲す明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、明治二十二年町村分合改稱を行へる際は、下谷本町の條に同じく中里村を立て其大字寺家となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■鴨志田町 カモシタチヤウ   世帯数 四四   人口 二三二
  元、鴨志田村と稱して都筑郡の内なり、開發の年代及び古き領主の名は傳へざれど、コ川氏に至り、村高二百八十五石の内を寛永十一年旗下松浦與十郎、大久保平左衞門忠顕の兩人に分ち與へ、一部は御料となせり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行へる際は下谷本町の條と同じく中里村を立て其大字鴨志田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■成合町 ナリアイチヤウ   世帯数 一八   人口 一一〇
  元、成合村と稱して都筑郡の内なり、小田原分國の頃は其家人長谷川彌五郎と云ふもの、之の村の内にて十二貫八十四文の地を領せし事役帳に見ゆ、コ川氏に至り正保の頃旗下淺岡八太夫筧三郎左衛門の兩名知行し子孫世々之を襲げり、明治維新後~奈川縣管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行ひし時は下谷本町の條に同じく中里村大字成合となる、昭和十四年四月一月濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付す、村名の起りを傳へず。

■上谷本町 カミヤモトチヤウ   世帯数 六七   人口 四〇九
  元、上谷本村と稱し都筑郡の内なり、古へは師岡庄と唱へし由なり、渡邊源藏直綱なるもの大坂陣に功ありしより其賞として元和三年五月釆地として村高二百五十一石の内を割て賜はり、其餘の地は倉橋三郎五郎、花井市左衛門知行し三給となりしが花井の分は後故あつて収公せられ、渡邊、倉橋の二給となれり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、明治二十二年町村分合改稱を行へる際は、下谷本町の條と同じく中里村を立て其大字上谷本となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に編屬し舊村名を採りて町名に付す、村名の由來を傳へす。

■大場町 オホバチヤウ   世帯数 五四   人ロ 二七一
  元、大場村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机クの内なりしと云ふ、昔の領主の名は傳へざれどもコ川氏に至りては、いつの頃か村高百九十二石の内をさきて旗下筧三郎左衛門正重に賜はり子孫世々知行せり、殘りの地は御料所なり、明治維新後は~奈川縣の管轄に入る、明治二十二年町村分合改稱實施の際は、下谷本町の條と同じく中里村を立て其大字大場となり、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を探りて町名とせり、村名の起りに昔鎌倉将軍の頃大場三郎なるもの之の地に居住せしより村名起ると言ふ傳へあリ。

■黒須田町 クロスダチヤウ   世帯数 一八   人口 一一一
  元、黒須田村と稱し都筑郡の内なり、至つて小村にて石高僅かに七十石に過ぎず、コ川氏に至りてより御料所にて代官の支配に屬せしが後年旗下坪井源五郎の知行する所となれり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行へる際下谷本町と同じく中里村を立て其大字黒須田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり村名の起りを傳へず。

■市ケ尾町 イチガヲチヤウ  世帯数 一一〇   人口 六二七
  元、市ケ尾村と稱し都筑郡の内なり、小田原北條氏分國の頃は村名を市クとも書きしと見へて家人役帳に「小机市ク四十八貫五百文上原出羽守」とあり、又同地某家に傳はる古文書にも市クの文字見ゆれば、今の市ケ尾に書さ改めしは、天正より後の事なるべしと武藏風土記に載せたり、コ川氏に至りては村高四百七十六石は寛永十九年青山因幡守に賜はリしが、其後所替へありて久世大和守廣之の所領に轉じ、更に寛文九年上知し同十二年甲斐庄喜右衞門正親の采邑に與へ、村内の一部を朝光寺、東n宸ヨ寺領として若干を賜はれり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行へる際の變遷は下谷本町の條に同じく中里村大字市ケ尾となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■西八朔町 ニシハツサクチヤウ   世帯数 五六   人口 三五九
  元、西八朔村と稱し都筑郡の内なり、古へは北八朔村と一村なりしとの傳へある事及び村名の字義については北八朔町の條に記せり、古へは小机ク師岡庄小机領に屬し又中古よりは~奈川領にかはれり、小田原北條氏の頃は笠原藤左衞門、小野與三郎兩名の知行所なりしが、コ川氏に至り村高二百五十石は、正保の頃には御料私領入會し、私領は久世大和守、依田勘三郎、原太兵衛等に頒ち與へ、元祿十一年朝倉某にも賜はりたり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村制實施の際は下谷本町と同じく中里村を立て其大字西八朔となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せリ。

■北八朔町 キタハツサクチヤウ   世帯数 八九   人口 五二二
  元、北八朔村と稱し都筑郡の内なり、古へは今の西八朔町の地と一村なりしといへど、いつの頃に分村せしかを傳へず、されど正保の國圖には既に分村しあれば其以前の事なるべし、小田原北條氏の頃には、上杉景虎及び笠原藤左衞門知行せしが、コ川氏に至り村高四百七石を元和七年板倉内膳正重昌の領地に賜はり、寛永十八年の頃青山因幡守に、又其後久世大和守の領地にかはり、更に寛文九年より御料となり、同十一年又板倉内膳正の釆邑に復し、翌十ニ年一旦上知し、同年より甲斐庄喜衞門に賜ひ又々延寶二年御料に復し屡々所領者に變遷ありしが、元祿十一年八月高尾阿波守に賜ひ以來子孫世々之れを襲げり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行へる際、下谷本村と同じく中里村の大字北八朔となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、八朔の文字について武藏風土記は次の如く記せり「八朔はもと假借の字にて和名抄のク名にのせたる(針折)の地なるべきことは已に郡の總説の下に辨ぜし如くなり」とあり、又郡の説總の條には、「針折(罰佐久)此ク名も正しき事を傳へず、按ずるに今の八朔村もしくば遺名なるペし、八朔は郡の中央にあり、かの村の條にも出せし如く後にいつの頃にや八朔と書き改めしならん、元龜、永祿の頃も今の文字に書き來れば古きことなるぺし」と見ゆ。

■小山町 コヤマチヤウ   世帯数 四五   人口 二六九
  元、小山村と稱し都筑郡の内なり、三保町に傳はる舊記によれば、之の村昔は小机領師岡庄榎下村の内なりしを慶長九年分村せし由記せり、左れど武藏風土記には天正十九年の水帳に武州都筑郡小机筋八朔の内とあり、之れより見れば八朔村の分村の如し、何れを眞とも定め難し、コ川氏に至り比企藤右衞門知行せしを、文祿年間荒川長兵衞重世に賜ひ、其子孫某の頃享保八年一族荒川八郎次へ分地せり其子八三郎の代に至り事ありて明和五年廢家となり、此分御料となりて維新に及べり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合の變遷は下谷本町の條と同じく中里村の大字小山となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて、町名に付す、村名の起りを傳へず。

■砥町 アヲトチヤウ   世帯数 四四   人口 二四一
  元、砥村と稱して都筑郡の内なり、元祿の頃迄の文書には戸とも書けりと云ふ、古へは榎下村の内なりしを慶長九年分クして一村を立てる事舊記に見へたり、コ川氏江戸入國後比企藤右衞門なるもの知行せしが正保の頃は勝部五兵衞の釆邑となり子孫世々之れを襲へり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施の際は下谷本町の條と同じく中里村を立て其大字砥となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りは、古へ鎌倉北條氏の老臣砥左衞門藤綱居住せしより村名となりしと土人は言へり、されど此説は砥の文字によりて兩會せしと見ゆ、別に證すべきことなしと武藏風土記は言へり。

■鐡町 クロガネチヤウ   世帯数 一一五   人口 五六三
  元の上鐵村、中鐵村.下鐵村の三村の地にて都筑郡の内なり、古へは一村なりしをいつの頃にか上中下三村に分てり、正保の國圖には未だ一村に見え、元祿の改めには既に三村に記せるより見れば元祿以前の事なるベし、コ川氏江戸入國後、上鐵村は旗下加藤權左衞門に賜はり其後明和元年に至り其半ばは御料となりて代官の支配となり、中鐵村は旗下筧三郎左衞門正重に賜はり、下鐵村は正保の頃までは御料なりしが後私領に賜ひて筧某の釆邑となり各子孫世々知行せり、明治維新後なるか以上三村は舊に復して一村となる、即ち風土記には三村を記し、明治二十二年町村分合改稱表には一村に記せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、其後の變遷は下谷本町の條と同じく、中里村の大字鐵となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の由來を傳へず。

■池邊町 イコノベチヤウ   世帯数 二七六   人口 一、六四二
  元、池ノ邊連村と稱し都筑郡の内なり、古は師岡庄或は小机庄にも屬せしと云ふ、この村古き領主の名ほ傳へざれど、松平薩摩守忠吉の家老小笠原和泉守宗忠に釆邑として賜はりし事ありと其年代ほ知れざれど文祿三年宗忠は村内に宗忠寺を建立し、慶長の末に故ありて没収せられしと云へり、村高千百二十二石餘は、元和元年大阪陣に戦功ありし中根大隅守正成及び村内小名藪村の地を木村源太郎元政に賜はりたり、正保の頃に至りては其外戸田半平、門奈善左衞門、増上寺領、宗忠寺領等の六給に分ち與へ、其後戸田半平の分を上知し、和歌所北村季吟に賜ひ各子孫世々知行せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱えお實施するに當り、隣村東方村、川向村、佐江戸村、川和村、折本村、大熊村および本ク村の飛地と共に合併して都田村を立て其大字池ノ邊と改む、昭和十年九月三十日川和町と改稱す大字の呼稱は元の如し、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りにつき風土記の記すところに依れば「村内宗忠寺の前に古池ありしより名付けしと土人の口碑に傳へり、今は其蹟水田となれり、それも古き世の事にて既に天正十八年太閤秀吉より狼藉制禁の札をあたへられたり其文書は村内百姓久米吉と云ふもの所藏せり、この久米吉が先祖は北條氏分國の頃此地の小代官を勤めたりとぞ、此地をイコノへと唱ふることは其頃よりのものにも見へじ、されば古きことならん」と記せり。

■東方町 ヒガシガタチヤウ   世帯数 一〇三   人口 六四九
  元、東方村と稱し都筑郡の内なり、古へは池ノ邊村の内にて其東の方なりしより東方と字せしがいつとなく一村となりて村名せし云へり、コ川氏江戸入國後村高三百六十八石餘は、旗下山角市藏勝成に賜はりしが、其後文祿元年梶川四郎二郎忠助に村高の内二百二十石を割き與へ、正保の頃其餘の地を増上寺領に賜はる、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、明冶ニ十ニ年町村分合改稱の際には池ノ邊町の條と同じく都田村を立て其大字東方となる、昭和十年九月三十日都田村は川和町と改稱其字東方となり、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名とせり、村名の起りは前に言ふが如し。

■川向町 カハムカフチヨウ   世帯数 八二   人口 五二八
  元、川向村と稱し都筑郡の内なり、この村古は小机村と一村なりしをいつの頃か分れて一村を立つと云ふ、コ川氏江戸入國後は村高三百三十石餘を淺井木工之助、竹尾佐五右衞門、三浦半之助、三浦五郎左衞門、小野次郎右衞門、新見彌三郎、久保吉右衞門、彦坂平六郎等に分け與へしが其後變革ありて淺井、三浦、小野、彦坂の釆邑のみとなり其餘若干の地は御料にて代官支配せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村制實施の際の變遷は池邊町の條に同じく都田村を立て其大字川向となる、昭和十年九月村名改稱又池邊町に同じ、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて村名とせり、村名の起りは小机よりは鶴見川を隔てし川向ひにあたれるより小名を川向と呼びしをいつとなく村名となりしものなる由土人は言傳へり。

■佐江戸町 サエドチヤウ   世帯数 一一二   人口 六五九
元、佐江戸村と稱し都筑覇の内なり、首へは師網拉とも又小凱圧とも唱へしと云ふ、小門原北燦氏の頃ほ境淀某知行せし事役暁に見ゆ、コ川氏江戸入国後村高五官三十四石は、写水十年ノ顔下せ尾左五左衝門元挙が釆邑と確りしが寛文年中故ありて上知となり其より御約所と確り、其後元緑十一年村円を割さ認訪某、盤村某の両名に賜ほりkり、これょり発き大敵院殿品川宿にて旗下の士の武器御覧のとき、佐野次郎兵衝政長武器あ立た貯へしにより其賞ミして雷村の内在賜ほ巧しよ弓、佐野、諏訪、先付の三給の外御料も入會せり、明治経新後ほ耐姦川懸の管轄に礎了、明治二十二年及昭和十年の奨遷ほ池達町の株に同じ、昭和十粥年明月一日積漬市に廃人港北底に磁し蕾付名な採りて町名に付せり、村名の由来な停へす0

■川和町 カハワチヤウ   世帯数 二六四   人口 一、三七〇
  元、川和村と稱し都筑郡の内なり、古へ師岡庄に屬す、この村昔は川輪又河輪とも記せし事ありしと云ふ、今尚鎮守八幡社所在の地は小字を河輪森と書けり、小田原北條氏の頃には北條左衞門大夫綱成知行せり、コ川氏に至り村高三百七十石は崇源院殿の御化粧料なりしが、逝去の後は佛供料として芝増上寺領となり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年の町村分合改稱及び昭和十年九月村名改稱等ほ池邊町の條に同じ、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■折本町 ヲリモトチヤウ   世帯数 九三   人口 五八九
  元、折本村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机庄に屬すと云ふ、小田原北條氏の頃には座間新左衞門知行す、コ川氏江戸入國後天正十九年村高五百十一石一斗四升八合八勺を割き旗下松下内藏允安綱に賜ひ尚其餘は慶長三年野々山新兵衞頼兼に賜ひ、尚殘りの地は代官支配せしを正保以後の頃に於て諏訪某に與へ尚持添への新田若干は御料とせり、明治維新後に~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年の町村分合改稱及び昭和十年村名改稱等は池邊町の條に同じ、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を以て町名に付す、村名の由來を傳へず。

■大熊町 オホクマチヤウ   世帯数 五五   人口 三七四
  元、大熊村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机の内師岡庄或は小机庄に屬せしとも云へり、小田原北條氏の頃にはsc某村内にて十一貫十四文を知行せる事役帳に見ゆ、コ川氏に至り村高二百六十四石二斗二升六合六勺をさき、元和二年十月稲富重次に又寛永十一年小長谷九郎左衞門重次に賜ひ其餘若干の地を鎮守熊野社に寄進せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明冶二十二年町村分合改稱及び昭和十年九月村名改稱等は池邊町の條に同じく、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名とせり、村名の由來を傳へす。

■新吉田町 シンヨシダチヨウ   世帯数 二四五   人口 一、五一七
  元、吉田村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机と領唱へしが中古師岡庄に屬せしと云ふ、コ川氏江戸入國後村高千百七十三石八斗五升は、旗下の士大久保某、彦坂某、朝倉某、小野某、小長谷某等に割き與へ、其餘の五百七石餘の地は御料所にて代官支配し共に世襲して明治に及べり維新後は~奈川縣の管轄に屬す明治二十二年町村分合改稱實施の際、隣村高田村、新羽村と共に合併し新田村を立て其大字吉田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す、町名を付するにあたり、既に中區に吉田町あれは舊村名の上に新の一字を冠し新吉田町とせり、舊村名の起りを傳へず。

■高田町 タカタチヤウ   世帯数 一四二   人口 八七七
  元、高田村と稱し都筑郡の内なり、古へほ師岡庄~奈川領に屬すといふ、武藏風土記には「土地の開闢を傳へずといへど、和名抄によるに橘樹郡の内高田クあり、當村は本郡の中央より艮の方にて橘樹郡の接地なれば、そのかみの橘樹郡の地此邊までかゝり、高田クと唱へしを、夫も變革して郡中に入りたれど、ク名の存せるは今も古名な失はざるならん」とありて古く開けし地なるべし、コ川氏江戸入國後村高四百八十八石一斗二升三合は、寛永の初迄は御斜にてありしが、同十年旗下の士曽根牛兵衛、小長谷九郎左衞門重次の釆邑に賜ひ子孫世々知行せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治ニ十ニ年の町村分合改稱は新吉田町の條に同じく新田村の大字高田と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の由來を傳へず。

■新羽町 ニツパチヤウ   世帯数 二一一   人口 一、三九三
  元、新羽村と稱し都筑郡の内なり、古へは根古屋庄とも或は小机庄とも唱へし由なり、此地も早く開けし事は鎌倉鶴岡八幡正應三年の文書に武藏新羽クとあり、又文明十八年道興准后の廻國雑記に「淺草を立ちて新羽と云ふところに侍るとて、小石川といへる處にまかりて」とあり、「同所新羽を立ちて鎌倉に至る」とあるは即ち此の村の事なるベし、コ川氏に至り村高千二百五十四石三斗三升餘の内をさきて寛永十年旗下の士若林六郎左衞門正直、駒井孫四郎勝重、太田九左衞門吉清、遠山四郎兵衞宗尹に、又其後正保の頃に小俣某、鈴木某等にも分ち與へたり、其後いつの頃か駒井及び小俣分は上知して御料となり、又若林分は其同族に分地したれば一村五給と御料と打交れり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱は新吉田町の條に同じく新田村の大字新羽と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■東山田町 ヒガシヤマダチヤウ   世帯数 九八   人口 五九三
  元、山田村と稱し都筑郡の内なり、古へは師岡庄ともいひ、又は小机庄とも唱へし由なり、小田原北條氏分國の頃は曾根外記なるもの知行す、コ川氏に至りては~奈川領と呼べり、御打入の時村高千三十八石を割きて千人頭河野傳之允、萩原五左衞門、志村又左衞門、山本金右衞門、山本傳次郎、曾根半兵衞、石坂勘兵衞、久保田荘兵衞、中村彌左衞門、荻原傳左衞門等の釆地に賜はりしが其内山本知行分は享保年中上知となリ、又石坂知行分も同二十年に収公せられ、又荻原知行分も上知して鈴木彌次右衞門の知行となり、尚其他に若干の御料もあり、之れに八給入會せり、明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施にあたり、隣村勝田村、牛久保村、大棚村、茅ケ崎村と共に合併して中川村を立て其大字山田と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す、町名を付するにあたり、其區域を三分し舊字東の區域に當町を立てたり、既に中區に山田町あるより、舊村名の上に東の一字を冠して東山田町とせり、村名の起りを傳へず。

■北山田町 キタヤマダチヤウ   世帯数 八二   人口 四六六
  當町の地は濱市編入前の中川村大字山田の地内なり、昭和十四年四月一日合併に際し、其北部の區域に當町を立て舊村名の上に北の一字を冠して町名に付せり、古き沿革は東山田町に同じ。

■南山田町 ミナミヤマダチヤウ   世帯数 七一   人口 四六一
  當町の地も前町に同じく前の中川村大字山田の地内なり、昭和十四年四月一日濱市編入の際、其南及び西部の區域に當町を立て舊村名の上に南の一字を冠して町名に付せり、古き沿革は東山田町の條に同じ。

■勝田町 カチダチヤウ   世帯数 三四二   人口 三四二
  元、勝田村と稱して都筑郡の内なり、古へは師岡庄小机領に屬せしと云ふ、村名の文字につき久志本左京の家譜には慶長三年鍛冶田クを賜ふとあり、又正保の國圖には歩田村と見へ、元祿のものには勝田と記せり、今の文字に改めしはいつの頃か分明せざれど元祿以前なる事は之れに依つて知るべし、コ川氏に至り村高二百五石三斗六合は世々久志本氏知行せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施の際は東山田町の條と同じく中川村を立て其大字勝田と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■大棚町 オオダナチヤウ   世帯数 五四   人ロ 三〇一
  元、大棚村と稱して都筑郡の内なり、古へは師岡庄に屬す、又小机庄ともいへり、小田原北條氏の頃に曾根外記なるもの知行せり、コ川氏に至り村高四百十石二斗六升餘を千人頭荻原五左衞門、窪田庄兵衛、窪田助之允、石坂勘兵衞、原權左衞門、中村彌左衞門、窪田五右衞門、荻原傳左衞門、山本金右衞門、河野傳之允、志村又左衞門、窪田善九郎等の十二給の外若干の御料あり、其内荻原傳左衞門、窪田傳九郎分はいつの頃にか上地となり、又石坂勘兵衞分は享保年中故ありて収公せられ私領九給と御科入會せり、村内に大棚下山田村とて之の村に附屬の八十一石四斗八升四合の地域あり、別に一村の如く聞ゆれど、之れは御料私領の分を區別せんため唱へしものといへり、斯かる名の起りは之の區域は山田村に接したる故なりしと、明冶維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、明治二十二年町村分合改稱の際は東山田町の條に同じく中川村大字大棚と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す町名を付するに當り其區域を二分し小字矢東、鵜ノ目、杉ノ森、才勝土の區域に當町を立て舊村名を採りて大棚町と名付く、村名の起りを傳へず。

■中川町 ナカガハチヤウ   世帯数 七〇   人口 四〇八
  當町は編入前の中川村大字大棚の内なり、古き沿革は大棚町の條に同じ、昭和十四年四月一日濱市に編入に當り、其地域を二分し大棚町と改稱の區域を除きたる全部の地に當町を立て前村名を採りて中川町とす、中川村の名は明治二十二年町村分合改稱實施の際、山田、大棚、勝田、牛久保、茅ケ崎の諸村を合せ一村を立つるに當り適當の名を得ず、之等諾村の中央に小流あるより中川と命名せるなりと古老は言へり。

■牛久保町 ウシクボチヤウ   世帯数 八〇   人口 四五八
  元、牛久保村と稱し都筑郡の内なり、古へは師岡庄又は小机庄とも唱へし由なり、昔この村名を土人は牛久保新田とも呼唱せしと云ふ、コ川氏に至り村高百四十七石六斗の内をさきて久志本左京亮忠範、安藤太郎右衞門の兩名の釆邑に與へ、尚一部の地は御料所にて代官支配せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施の際は東山田町の條に同じく中川村を立て其大字牛久保となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

■茅ケ崎町 チガサキチヤウ   世帯数 八四   人口 四七〇
  元、、茅ケ崎村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机庄の唱へありしと云ふ、小田原北條氏分國の頃は座間某知行せし事家人役帳に見ゆ、又天正の始め深澤備後守知行すと云へり、コ川氏に至り慶長三年野々山新兵衞の釆邑となる、村内石高三百六十九石二斗五升六合の内百五十六石を芝増上寺領に寄進す、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施に際しては東山田町と同じく中川村を立て其大字茅ケ崎と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の由來をにせず。

■元石川町 モトイシカハチヤウ   世帯数 三一九   人口 一、八七〇
  元、石川村と稱し都筑郡の内なり、古へは小机庄なりしと云ふ、小田原北條氏の頃は吉田某の知行所なり、コ川氏江戸入國後村高九百二十一石九斗六升三合は崇源院殿の御化粧料となりしが 寛永九年増上寺の御靈屋料となる、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱實施の際、隣村荏田村及び黒須田村の飛地と共に合せて山内村を立て其大字石川となる、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬す、町名を付するに當り元黒須田村飛地の字平井谷、松場、免谷、日吉の區域を併せて當町地域とし舊村名の上に元の一字を冠して町名とせり、之れ中區に石川町の存するより、元の石川村なる意を表せしなり、村名の起りを傳へず。

■荏田町 エダチヤウ   世帯数 二六一   人口 一、四九六
  元、荏田村と稱して都筑郡の内なり、古へは師岡庄の内なりしと云ふ、小田原北條氏分國の頃には曾根釆女介の知行所なり、コ川氏に至り村高七百三十石は崇源院殿の御化粧料に當てられしが逝去の後は芝増上寺領となれり、明治維新後は~奈川縣の管轄となる、明治二十二年町村分合改稱實施に當りては、元石川町の條と同じく山内村を立て其大字荏田と改む、昭和十四年四月一日濱市に編入港北區に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の起りを傳へず。

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