美談逸話01
   緒  言
 国勢調査の根基となるべき這回の地方実査は、数次縷述せるが如く未だ十分なる試練を経ざるの際に於て最も困難なる事業を遂行せしものにして、尋常一様の努力豈に能く其の効果を収むるを得んや。而かも其の当時者並びに直接実査の衝に当りし国勢調査員は、何れも責任の重大なるを体得して日夜寝食をを忘れ、専心一意職務に尽瘁し、終に予期以上の好成績を挙ぐることを得たり。其の熱誠敢為の美風と之れを援助せし特志者の義気とは以て一般国民をして感奮興起せしむるに足るものありう。今特に其の最も顕著なるものを摘録して後世に伝ふるは、必ずしも無益の業にあらざるべきを信ずるなり。
   東 京 府
 東京市日本橋区の調査員中には申告書の予習をなすに当り他見を防ぐ方法として、任意に予習せんと欲する人々に対し封筒を添へ置き、自分に親展にて送届くることを託し、家人を遠ざけ一室を事務室にあて単独熱心に予習書を検し、元の如く親展を以て返送せる等、緻密の注意を払いて誤解を避くるものあり。又10月1日申告書の蒐集を終るや、直ちに調査員の名刺に「申告洩れあらば4日迄に必ず追加申告をなすべきことを印刷して、自ら各戸を訪問配付して注意を促したるものありて之が為め追加申告者3名を出せり。其の他一般にも追加申告上の注意は各別に之を為したるを以て夫々追加申告者ありたりと雖も、此の如きは蓋し特殊の心懸を以て熱心本事務に当れるものと云ふべく、殊に率先して希望者に対して予習を為さしめ、又活動写真宣伝を提唱して、自己町内居住者を集合せしめんとしたる折柄、付近町民の希望を容れ、数ケ町を連合して開催するに至りし為め調査宣伝上の効果極めて良好なるものありき。
 同市本郷区の調査員湯島新花町98番地倉地鈴吉氏は9月19日湯島尋常小学校に於て宣伝活動写真映写会の際、同氏担任調査区内各戸に自費を以て印刷物を調製配付せるのみならず、亦自費を以て数回に亘り注意書各三千枚を印刷し、区内市立小学校児童をして各自の家庭に配付せしむる等専ら宣伝に努めたり。
 同市同区弓町二丁目8番地小松嘉重氏は同氏担任の調査区(調査区域元町二丁目66番地の一部及同町67番地より77番地に至る砲兵工廠前通り)の大部分は労働者にして、容易に其の世帯に於て面会するを得ず、依て是等労働者の集合する一膳飯屋に至り宣伝に努めたり初は単に朝夕此の一膳飯屋に至り宣伝しつゝありしも斯くては営業主に於て迷惑を感ずるならんと推察して以後は三食共自身此の飯屋に於て食を取り以て宣伝及び調査を為せりと云ふ。
 同市同区駒込片町8番地井ノ部一氏は国勢調査趣旨宣伝の俗謡印刷物五千枚を作り9月5日より19日まで晴天の夜は連日街頭又は活動写真館、宣伝講演会場等に於て之を歌ふて集合者に配付し或は其等の質疑に応答し、又9月26日には小学校児童十数名と共に宣伝俗謡を合唱しつゝ東京府並に東京市の宣伝広告を記入したる旗行列を為し、以て区内を巡回し大に宣伝に努めたり。
 浮浪人の調査は調査中の最も困難なる一事に属するを以て、浅草公園吉原廓内、今戸公園等此輩の多数出没する箇所にては其調査に十分なる研究を遂げ細心の注意を払たる結果として、調査の時刻たる10月1日午前零時を期し、浅草区調査係員及調査員にして同区第10班在郷軍人其の他二三有志の調査員等を加へ、一挙して本調査を執行するとに決せり。会々当日は大暴風雨なりしも、午後10時田中東京市臨時国勢調査部副部長、竹内同主事を始め前記在郷軍人会第10班中の調査員及調査員中の有志其他浅草区吏員戸田主任外4名総数23名は区役所に集合し午後11時を以て出発す、時に風雨最も烈しく先づ浅草廣小路より仁王門附近に就き調査したるに同門内に於て78名の浮浪者を発見し、又摺鉢山付近埃溜場内にて56名を得たり、是より一行二手に分れ一は吉原方面に、一は浅草公園より千束町の所謂魔窟を経て今戸公園に出で、鋭意之が捜索に努めたる結果総数75名の多数を得に至れり。中にて頗る滑稽なりしは身をセメント枠内に埋め、之を以て得意の居所となせるなり、又前記埃溜場には庇下に山積せる埃上に古筵を布き、臭気紛々たる処に於て数人の共同安臥せるを見るあり、又共同便所内に一隅を占め悠々として坐臥するあり、奇態百出之に遭ふ毎に自ら失笑を禁ずる能はざるものあり、一行濡鼠の如く雨に満身を沾しながら之が調査を遂行したるは亦当日の一逸事たるを失はず。
 深川区に於ては市より宣伝兼用の申告練習用紙の頒布遅れたるを以て、調査員の多数は私財を投じて申告書練習用紙を購入し、若くは印刷して担当区域の各世帯に配付し、又或る調査員は申告書記入の栞と題する小冊子をも購入して練習用紙と共に配付し、以て申告義務者の便に供し、夫々遺漏なき申告を得るに努めたるのみならず、国勢調査の趣旨を一般に周知せしむる為角提灯を造り府及市の宣伝ビラを両面に貼付して高く掲げたるもの、或は宣伝印刷物を其の町内及町内の飲食店に備へ客をして自由に持ち去らしめたる如き特記すべきもの甚だ多し。
 9月30日夜暴風雨襲来の警報伝はるや深川区猿江裏町、猿江町、本村町、石島町、千田町、東扇橋町、西町、富川町、東大工町、霊岸町、元加賀町、東平井町、西平井町、豊住町、木場町、洲崎弁天町、洲崎町、平富町、佃町、古石場町、越中島町、蛤町等出水地域担当の各調査員は夜半大風雨を冒して受持各世帯に就き注意を与へ、以て申告書用紙並に予て練習したる練習用紙をも紛失せしめざらしめたり。
 同市麹町区永田町二丁目62番地男爵井田盤楠氏夫人は、該区担当調査員を其の応接室に招じ、家族雇人を集め調査の趣旨申告書記入方等に関する説明を聴取し、以て親族知人及び隣家等に之が伝達の方法を講ぜられたり。
 同市麹町区裏霞ケ関町伯爵大谷光瑩氏邸に於ては、同家の執事をして邸内数多の世帯に付一々調査趣旨の宣伝をなし、予め申告書記入事項を漏なく且正確に調査せしめられたるに依り、担当調査員は之が為め非常なる便宜を得たりといふ。
 同市赤坂区青山南町の或る世帯に於ては、10月1日には夫妻及子女等一家挙って団欒の状態を申告書に記載すべきことを語り暮し居りしに、偶々9月31日に至り、郡部に住せる妻の母病気の報知に接したれば、妻は遅くも当夜帰へるべきことを誓ひ、取急ぎ実家に赴きたるに、其の夜風雨烈しく剰へ出水ありて終に帰宅すること能はず止むなく実家に於て申告することゝなりしに妻は申告の重複を恐れ翌午前6時頃泥水脛を没する中を態々帰宅し、戸外より其の旨を夫に告ぐるや否や直ちに再び実家に引返したりと云ふ。
 同市同区伝馬町の或る世帯に於ては10月1日主人自ら調査員の労を犒らひ、礼を尽くして申告書を提出せんと欲せしに、会ゝ他出の為め礼装せる折柄とて、其の儘約2時間余玄関に立ち尽くしたりと云ふ。
 南葛飾郡吾嬬町第18区調査員入澤孫之進氏は後備役陸軍伍長にして現にモスリン会社機械組立工なるが深く職務の重大なると町の名誉とを思ひ会社を欠勤して各戸を訪問したること78回に及べり。且つ同氏は準備調査又は申告書記載例等に付きての問題に対しても他に優れて即答をなし得るのみならず、9月30日に至り、吾嬬町第2区内に数軒準備調査漏れであることを発見し、10月1日の申告書蒐集並に整理期間中に二回受持区域を巡回して申告漏の有無を厳正に調査し、其の結果旅行者の一名申告洩れとなりたるを発見して何れも直に之を同町役場に報告して些の遺漏なからしめたり。其の他個人的宣伝又は会社内の宣伝には特に大に努めたりと云ふ。
 同郡吾嬬町第6区調査員星野鐵太郎氏は青年会の役員にして農事の暇を以て法規類及記入例等の研究に没頭して神経衰弱に罹り、医師より調査員の任務を辞することを勧められしも、断乎として聴かず能く任務の遂行を完ふせり。
 同郡南綾瀬村調査員某氏は、申告書と同形の用紙を調製して予め之を配付し置き、一日毎に巡回して、記入事項を説明し、且つ大に宣伝に力めたり、加ふるに同人の受持区域は同村に於て最も困難なる区域なりしなり。
 同郡隅田村調査員井上邦三氏は医師にして、一度び調査員を拝命するや、自家の患者を同業者に託し、専心宣伝に努め、白作の歌謡三千枚を印刷して之を配付し大に職務に尽瘁するところありたり。
 ※歴史資料の性格上、差別的な意味を持つと思われる字句・表現を、原則としてそのまま掲載してあります。これらの字句・表現に接することで、差別の不当性、偏見やタブーが、当時(大正11年10月)から今に至ってもなくならない現実を見つめるきっかけになればと願っています。