箱根駅伝で有名な権太坂を途中で折れたところに、保土ケ谷区と南区との境となる道路を隔てて、こども植物園(南区六ツ川三丁目)と、児童遊園地(保土ケ谷区狩場町)がある。それぞれ、3ha、14haの広さがあり、隣接する英連邦戦死者墓地やゴミ焼却工場、保土ケ谷プール、老人福祉センター、緑化センター等の敷地面積を併せると途方もない広さになる。決して平坦ではなく、丘陵地形の特徴を生かした配置がなされており、緑の木々に包まれて、ほっと息抜きしたい向きには絶好のフィールドだ。
こども植物園
小麦の研究の世界的権威、種なしスイカの作出で有名な故・木原均博士の創設した木原生物学研究所が、昭和32(1957)年、周りのほとんどを山林に囲まれた横浜のこの地に京都から移転した。しかし、昭和40年代に入ると周囲の状況が激変。大規模集合住宅団地や宅地造成工事が進み、自然環境の破壊が従来の試験研究遂行に支障をきたすようになったため、緑地保全の意味からも一部を残して横浜市に売却された。昭和54(1979)年の国際児童年を契機に、こどもたちに自然・植物に親しみながら知識を深め、緑を守り育てる心を培ってもらうことを目的として「こども植物園」が開園。こぢんまりとした園内には「エジソンのマダケ」「メンデルのブドウ」「ゴッホのヒマワリ」「ニュートンのリンゴの木」をはじめ珍しい品種が数多く集められ、コンパクトながらわかりやすい展示方法で定評がある。
児童遊園地
今の児童遊園地は、もともと英連邦戦死者墓地の場所に、大正11(1922)年、学制発布五十周年を記念して計画され、募金・寄付金を原資として昭和4(1929)年に開園した。児童遊園地といっても、当時は、運動場やプールなどの体育施設を設置したもの。その後、戦時下には錬成場となり、戦後は進駐軍に接収されて全国に分散していた英連邦戦死者の墓を集め、英連邦戦死者墓地となった。昭和27(1952)年に接収解除となったものの、墓地造成が進められていたことから返還されることはなかった。そこで、この土地を国と英国に売却して得た資金で隣接の民有地を買い上げ、再び開設に至ったのが現在の児童遊園地だ。ジェットコースターも観覧車もない遊園地だが、自然樹林、池、広場など、ピクニックの聖地といっても過言ではないだろう。
英連邦戦死者墓地
「日本国政府の厚意によって提供されたこの土地には、英連邦諸国、アメリカ合衆国、オランダ王国の各国民で祖国の為に生命をささげた人々が葬られています。この墓地の維持管理は英連邦戦死者墓地委員会が、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタンの諸国に代って行っています。参観時間は8:00AM〜5:00PM迄となっています」と入口の案内板にある。墓地は自然を生かし、空間の広がりを意識した庭園風に設計され、整然と並んだ各国兵士の墓碑を見守るかのようにそれぞれの国特有の木々が植えられている。