安政5(1858)年に開港した横浜は、外国人居留地を中心として飛躍的に発展した。商取引も活発になるにつれ、外国人も増え、同時に横浜で不帰の客となることが増加し、同時に墓地も必要になった。ときには居留地に居住する外国人のうち中国人(清国)が6割にも達している。明治4(1871)年日清修好条規が締結され、神奈川県令に墓地の貸与を願い出ると、明治6年久良岐郡根岸村字大尻の現在地(中区大芝台)に民有地1千坪を県が買い上げ、貸与されることになった。これが通称「南京墓地」と呼ばれる「中華義荘(中国人墓地)」である。当時は故郷中国へ棺を送還するまで仮埋葬する場所として使用されたが、幾たびかの戦争・政変などの社会環境の変化に伴い、やむなく永住となり、異国に永眠を余儀なくされる結果となった。この墓地が居留地から遠く道も無く野草が生い茂るような荒れ野であったことから、心安らかに墓参ができるよう明治25年「地蔵王廟」建設された。横浜市内に残る最古の近代建築として、平成2(1990)年市有形文化財(建造物)に指定されている。
撮影ポイント 語らいポイント 敬虔に節度をもって
日本人の墓地に、興味本位の外国人が足を踏み入れたら、そこへ墓参に来た人たちはどう感じるだろうか?そのことを念頭に置いて、訪れて欲しい。できれば、見学の事前申込みをする方がいい。文化財としては、かなり貴重なものだし、その素晴らしさに圧倒される。地蔵王廟へ入ると、あの西遊記の世界へタイムスリップしたような錯覚に見舞われること間違いない。
ここも土地不足なのか、大きな納骨堂が建っている。墓地の様式としては、和式の墓地と余り差異はないように思う。朽ちる肉体から霊魂が離れて、また別の人になって生まれ変わるという輪廻転生思想の場合、焼骨を納めて供養塔を建てるケースが多い。それに対し、死んでも霊魂は肉体から離れずに彼岸という時空のズレの向こう側で生前と変らずに暮らしているという考え方があり、その場合、家族の写真や愛蔵品とともに、生前の部屋を模した家のようなものを建て、いつでも共にあるという風のお墓もある。
大芝台の高台に位置しているために、かなり広い範囲を見渡せる。大正12(1923)年関東大震災が起き、中華街では1千7百人が亡くなった。その多くがここに集められ埋葬された。翌年「華僑山荘横浜震災後記念碑」が建てられたが、碑文には被害者2千6百余名とある。