日本のどこか遠くへ行きたい。国内旅行紀行
No.118
 源九郎判官義経は、兄頼朝に追われて奥州に落ち延び、藤原秀衡を頼ったが、文治5(1189)年閏4月30日その子泰衡に襲われ、31歳にして妻子とともに自害した。また一方では、これは頼朝の目を欺くための偽戦で、義経の影武者だった杉目行信が討ち死にし、義経一党は黒森山中にしばらく身を隠したのち、6年間東北一帯を転々としながら、最後には蝦夷地に渡ったと伝える。
 真贋のほどは皆目わからない。ただいえることは、奥州藤原氏三代にして黄金の都をここ平泉に築き、仏教にいう浄土を模して都市計画がなされたことに注目したい。義経は京都・鞍馬で育った経験から、平泉・中尊寺との共通性を強く認識して夢を描いていたに違いない。義経が自分を貴種として自覚したとき、公家政権に対する武士の台頭→源義家の東国平定→平氏の政権掌握という流れの中で、平氏も一目置く奥州藤原氏の存在は驚異的に映った。そこで秀衡の帝王学を習う。兄頼朝が幕府を開く。その機に乗じて歴史の舞台へ躍り出る頃には、奥州藤原、東国頼朝、畿内朝廷、西国を平氏から義経にと計算していたのかもしれない。一ノ谷から壇ノ浦までの戦い方、頼朝に京を追われた際、船で西国へ落ち延びようとしたことなどで推測できる。
 さて、平泉は北上川が作った地形に展開される北の都だ。当時、日本海に展開する海上交易ルートがあったことや、金山を効率よく管理する意味からも、また朝廷の役所が置かれる多賀城と一定の距離を置く必要からも適地だったのだろう。それにしても、京都や東京を日本の中心として位置関係を測る現代人にとって、中尊寺や毛越寺は「よくもまあ、こんなところに!」と感心すること仕切なのだが、義経にしてみれば俘囚と蔑む地のことだからもっと衝撃的だったと思う。
参道を登り始める
結構キツイ月見坂だ
門と茶店がある
弁慶堂に到着
等身大の弁慶と義経だそうだが・・・
いろいろ置いてある
弁慶堂からの眺め、衣川が見渡せる
 駐車場は月見坂へ上がろうという参道の入り口と、本堂の近くへ直接出る辺りとで2か所ある。イヤホンガイドを借りたり、弁慶堂へ立ち寄りたい向きには、月見坂の駐車場を利用するとよい。奥行きの深い中尊寺の拝観所要時間を2時間、毛越寺を1時間半、義経堂を30分と見積もって行動計画を立てよう。午後4時が拝観終了、義経堂には駐車場がないことも注意したい。食事については、中尊寺月見坂口のまわりに大きな土産物店が数軒ある。毛越寺の駐車場に団体客収容の土産物店が1店ある。
地蔵堂
本  堂
薬師堂
大日堂
宝物館
館  内
金色堂
経  蔵
釈迦堂
旧覆堂
芭蕉像
静かな境内
アマガエル
祈りの石積み
神社鳥居
鞍馬山に似ている
白山神社と能楽堂
中尊寺消防隊
弁財天堂
大木が並ぶ
 高館から北上川越しに束稲山を眺めていると、江戸時代の人々が義経は衣川で死んでいないと考えたくなるのももっともな気がしてくる。それにしても本州を往復した義経主従の行動にはヒーローになりうるバイタリティーが溢れているし、それだけに全国各地に義経や弁慶の名がつく名所・旧跡があるのもうなずける。
高館・義経堂。仙台藩四代藩主伊達綱村が建立した
凛々しい義経像
供養塔とは別に石碑が
義経堂からの眺め。正面の束稲山では8月16日大文字焼きが行われる
周辺探訪
 郵政民営化ではないが、交通機関は時代により民間から公共へ、戦後は公共から民間へと早くからシフトして久しい。その後にどうなったかを考えると、モータリーゼーションの波がやってきて、経営が苦しくなった地方の交通機関は乗り継ぎが悪く、観光に不向きなものとなってしまい、赤字路線は公共が肩代わりせざるをえなくなった。当然、観光にあたってはマイカーかレンタカーで巡るしかない。そのかわり、道が恐ろしく立派で、道の駅なども整備されて快適な面も否めない。そうなると平泉へ行ったなら、中尊寺・毛越寺ばかりではなく、達谷窟毘沙門堂や厳美渓の空飛ぶ郭公だんごを楽しんでみてはいかがだろうか?しかし、地方では年齢性別関係なく車が必需品になっているので、時速20〜30kmのスピードで走る、じいさん・ばあさん運転の軽トラが我が物顔で、時としてセンターラインを越えつつ対向してきたりする。くれぐれも気をつけよう。
厳美渓
 渓谷美もさることながら、ここの一番人気は空飛ぶ郭公だんご。あまりの人気に人だかりがしているのでわかる。渓谷に渡したワイヤーにぶるさげられたカゴにお金を入れて、そばにある板を木槌でたたく。とたんに、ササ〜ッとカゴが戻ったと思うと、スルスルッと降りてきて、中にだんごとお茶が入っている。駐車場はまわりの土産物店を利用する。
渓谷とカゴ
だんごの休憩所
スルスルッと降りてくる
郭公だんご
お茶の入ったやかん
達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂
 時代を遡ること1200年。桓武天皇が、坂上田村麻呂を征夷大将軍に命じて、東国を実効支配していた蝦夷・悪路王の討伐をすすめた。本拠地・達谷窟を落とし、悪路王の首を刎ねた将軍は、毘沙門天の加護を感じて堂を建立したという。近くには、京からさらって閉じこめた姫が逃げないよう見張りを置いたという滝がある。悪路王も嫌いじゃない。
狛犬あ
鳥  居
狛犬うん
清水寺を模した毘沙門堂へ入るのもスリル満点だ。国内でも珍しい別当職が管理している
岩が落ちたら怖いぞ!
内  部
正  面
廻り経壇
窓からの眺め
岩面大仏
弁天堂
弁財天
不動堂
姫待不動尊
石塔群
悪路王がさらった姫を逃げぬよう待ち伏せたという滝
毛越寺
 東北観光の際、必ず観光バスが立ち寄るんだろうと思われるほどの大きな駐車場がある。毛越寺の創建は850年。のち、奥州藤原氏2代基衡が晩年の1150年から7年間に造営したとみなされている。往時は堂塔40、僧坊500を数えるほどだったといい、中尊寺を築いた初代清衡の仏国土の理想を、2代基衡が出現させたともいえる。
本  堂
線  香
厄除け義経人形
宝  物
本尊・薬師如来
館  内
庭  園
庭  園
庭  園
遣  水
庭  園
庭  園
開山堂
慈覚大師円仁像
常行堂
蓮  池
本尊・宝冠阿弥陀如来
うまいもの@うどん
うまいものAもち
うまいものBラーメン