公式記録補記(被害箇所)略年表

概   要
1 わずか1時間8分の焼夷弾空襲で、横浜市域の34%が焼け野原になり、7000人から8000人もの市民が焼け死んだといわれる。

2 飛来したB29爆撃機は500機、P51戦闘機は100機、落とした焼夷弾は40万個以上にのぼり、市民1人あたり2発ぐらいの割合になる。

3 横浜市に対する空襲は、昭和20年1月から8月までに30回以上にもなった。

4 昭和20年、市内には市立の国民学校83校、幼稚園1校、青年学校34校、旧制中学校6校、ろう学校1校、専門学校2校の計127校あった。
全体の38.6%に相当する国民学校32校が空襲で被害を受け、そのほとんどが全焼した。特に鶴見、神奈川、西、中、南区が集中的にやられた。
この説明は「空襲の記録」が編纂され、様々な証言が公表されるに従い、マスコミ記事の前文として書かれたものを要約

区 分 概  略  説  明 発 表
日本 米国
戦 力 B29爆撃機〜454機、P51戦闘機〜101機
富士山方面から進入、木更津から勝浦方面へ離脱
 
日 時 昭和20(1945)年5月29日午前9時22分〜10時30分  
投 下
焼夷弾
31,274個=2,569.6トン  
約210,251個(集束焼夷弾であるための違い)  
被 災
地 域
中、南、磯子、西、神奈川、保土ケ谷、鶴見の各区
主として旧横浜市内中心部
 
被 害
死 者 3,650人 全焼民家 79,017戸
重傷者 1,656人 全焼工場 319箇所
軽傷者 8,542人
行方不明 309人
罹災者 311,951人 (横浜市311,218人)
被害率 (横浜市46%)
 
被 災
面 積
5.29空襲 約17.9ku (全市域の約34%)
累 計 約23.1ku (全市域の約44%)
 
天 候 午前8時現在西北西の風1.7m 湿度80% 晴天  
※集束焼夷弾=焼夷弾による無差別爆撃は日本が中国で最初に実施した。米軍もこれを受けて研究に着手。木造家屋の多い日本では、油脂焼夷弾(ナパーム弾)が有効であることを実験で確認し、B29爆撃機に1本3kgの油脂焼夷弾を48本束ねた親弾を80発積み込んで作戦を開始した。投下すると、弾頭の風車が回ってネジがはずれ、鉄製の弾頭が先に落ち、親弾が解体され、48本がバラバラになって飛散する。焼夷弾の尻部分にはリボンが折りたたまれ、飛散と同時にヒラヒラと尾を引いて落ちてきた。着弾の衝撃で発火する信管が頭部分にあったので、垂直に落ちるようリボンを尾翼代わりにしたためだ。また、酸素にふれると燃えるリンを混ぜていたことから、油脂が付着すると水をかけても消えなかったといわれる。

公 式 記 録

「五・二九空襲被害状況ニ関スル件」
二十防空秘発第三四号 昭和二十年六月五日 神奈川県知事(警察部長)

 五月二十九日空襲ニ因ル県下ノ被害状況ニ関シテハ今次申報ノ通リナルガ六月三日迄判明セル被害状況左記ノ通リニ有之候条此段及申通報候也(追而警察消防署長ニ在リテハ参考ニ資スルト共ニ防諜上遺憾ナキヲ期セラムベシ)


五月二十九日空襲被害状況(六月四日現在)
一、警報発令状況(略)

二、来襲状況

 九時十五分頃ヨリ十時三十分迄ノ間B29約五百機P51約百機計六百機ノ戦爆連合ニテ高度三千米乃至五千米ヲ以テ概ネ相模湾方面ヨリ波状的ニ大少編隊ニテ来襲、横浜市中区、南区、磯子区、西区、神奈川区、保土ヶ谷区、鶴見区ニ侵入主トシテ旧横浜市内中心部ノ商店街、住宅密集地帯ニ対スル無差別焼夷攻撃ヲ為シ更ニ一部ハ旧川崎市ヲ空襲シタル後東京湾上ヲ経テ房総南端方面ニ脱去セリ

三、投下弾

 六封度小型焼夷弾及大型(五〇瓩級)油脂焼夷弾ヲ主トシ一部ニ小型ヱレクトロン焼夷弾ヲ混用投下セリ
 其ノ数量ハ約二十一万個以上(尚不明ノモノ多数)ニシテ精密爆撃ヲ加ヘタリ、尚爆弾投下ハ認メラレズ

四、被害状況
 1 人的被害
死者   三、六五〇名
重傷者 一、六五六名
軽傷者 八、五四二名
  計 一三、八四八名
行方不明 三〇九名
 2 物的被害
全焼民家 七九、〇一七戸
全焼工場 三一九 
(概ネ中小工場ノミ)
 3 罹災者 三一一、九五一名
(横浜市ノミハ 三一一、二一八名)
 4 被害率 四六%(横浜市ノ被害率)
(註 三月三十一日現在横浜市人口約八十万九千名、内旧市内約六十七万一千)
(以後省略)

第二一爆撃機軍団司令部戦術作戦任務報告
 この報告は、一九四五年五月二十九日、横浜都市産業地域に対して行われた第二一爆撃機軍団作戦任務第一八六号を内容とする。

1 作戦任務の内容
 A 戦闘機による援護を受けて、横浜市に対して共同作戦による白昼高高度からの最大限の焼夷弾爆撃
 B 指定目標
  1 有視界及びレーダーによる第一目標 四個航空団前部に、有視界及びレーダーによる目標として横浜都市産業地域が割当てられた。
  2 第二目標又は最終順位目標は指定されなかった。

2 戦略と作戦の諸計画
 A 攻撃の戦略と計画----これまで二回の低空焼夷弾攻撃でわが軍団がこうむった損失機数がふえているため、今度の作戦任務では、高高度編隊攻撃が計画された。(中略)恒風を利用するために、風下に向って飛行しつつ風下の平均弾着点をまず最初に攻撃することが決定された。
 B 目標の重要性----横浜市は、(一九四〇年の国勢調査で)人口九六万八、〇九一人を擁し、日本第五位の大都市であるとともに、第二位の大港湾をもつ。航空機、鉄鋼、ゴム、無線、電話の工場もこの地域にあるが、この都市のもっとも重要な活動としては、造船と自動車工業がある。この作戦任務の目標地域は、下町の商業地域を含み、その中に産業施設が、とりわけドックと水際正面地域のほうにちらばっている。この地域の特徴はまた高い人口密度でもある。(以後省略)

3 作戦任務の遂行
 A 発進(略)
 B 出撃進路(略)
 C 目標上空
  1 第一目標----はじめの方の編隊は、目標上空の気象条件が快晴であることを見出したが、攻撃の後の方の段階では煙が部分的に目標をぼやけさせた。目標地域の航行は大部分の場合レーダーによっておこなわれた。合計四五四機が、(グリニッチ平均時)二十九日〇時二二分から二十九日一時三〇分までに、一万七、五〇〇フィートから二万一、〇〇〇フィート(5300m〜6400m)までの高度で、第一目標に対し二、五六九・六トンの焼夷弾と集束弾を投下した。三〇五機が有視界で爆撃し、一四九機がレーダーによるかあるいは標定点または間接照準点で有視界照準によって爆撃した。
  2 臨機の目標(略)
  3 戦力の残り(略)
 D 復路(略)
 E 着陸(略)
 F 損失----B29七機が次の理由によって失われた。敵機によるもの----1、敵の対空砲火によるもの----3、敵機と対空砲火によるもの----1(不時着水)、不明----2(不時着水)。(以後省略)

付録D 諜報
第V部 損害判定報告
横浜市
1 概要
 a 一九四五年五月二十九日に行われた第二一爆撃機軍団作戦任務第一八六号に起因する横浜市の損害は、六・九平方マイルにおよんでいる。これは全市のおよそ三四%に当る。
 b 産業被害は、番号がついた目標で被害を受けあるいは全壊したもの二〇件をふくむ。
 c この爆撃によって全壊した地域は、主として「商業地帯」に分類された地帯にある。
 d 横浜の損害累計は現在は八・九平方マイルであり、これは全市の四四%に当る。
横浜都市地域
  投下個数   三一、二七四個(焼夷弾)
  投下トン数   二、五六九・六トン

アメリカ戦略爆撃調査団 「複合都市、東京・川崎・横浜に対する空襲の効果」
 1944年11月から1945年8月までの期間に、第20航空軍は、この3都市に対し、11回の大空襲と無数の小空襲や単独の攻撃を行い、爆弾のほとんどを東京に投下した。8回の大規模な地域的な空襲のうち、6回は首都・東京が目標であり、川崎と横浜がそれぞれ1回ずつ目標となった。
 航空機を用いた攻撃の10か月間に、4,230機がこの地域に2万2,885トンにも及ぶ爆弾を投下したが、これは地域空襲を受けた日本国内の66都市に投下された総量(15万9,744トン)の14%にあたっていた。この3都市に投下された量のうち、1万6,217トンすなわち71%は、焼夷弾であった。
 もっとも壊滅的な爆撃は、1945年3月、4月、5月に行われ、地域爆撃による爆弾投下量合計のうち89%が、この3か月間に投下された。
地域爆撃での月間投下爆弾トン数
  1944年 1945年
11月 12月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月
東京 302 102 205 859 2,060 3,031 6,976 - 10 386 13,931
川崎 - - - 8 3 1,504 7 - - 32 1,554
横浜 4 4 3 14 - 3 2,570 - - - 2,598
306 106 208 881 2,063 4,538 9,553 - 10 418 18,083
 日本のどの都市に対する空襲にくらべても最も効果的であったのは、1945年3月10日の東京に対する夜明け前の焼夷弾攻撃であった。その結果としての死者と破壊の程度は、第二次世界大戦中にどのような戦域で行われたどのような1回の作戦任務によって生じたものとくらべても、これを上まわっていた。この爆撃の成功については、一つには、高高度爆撃機B29がこのような戦時爆撃がはじめてであるのに、低高度5,000ないし7,000フィート(1,500〜2,000メートル)で作戦したというその驚異的な性能によるものだ。
空襲による物理的損害
損害の種類 建物密集面積 壊滅地域 建物数 壊滅建物数
ku ku
東 京 2,875 1,476 51 1,161,000 727,655 63
川 崎 285 104 36 68,900 35,107 51
横 浜 518 233 45 223,900 100,070 45
3,678 1,813 49 1,453,800 862,832 59
 日本側の推定によれば、3都市に対する空襲の結果として家を失った住民の数は340万人、すなわち全人口の43%に達した。日本側の公式推計はまた、都市地域から立ち退いた住民の数を460万人、すなわち全人口の58%としている。
空襲による死傷者数
  人  口
(1944年2月)
死  者 負傷者 住宅喪失者 疎開者 人  口
(1945年8月)
減少
東京 6,577,620 93,056 72,840 2,890,000 44 4,100,000 62 2,310,734 65
川崎 380,919 1,520 8,759 154,426 41 150,000 39 216,197 43
横浜 1,034,740 4,832 17,967 399,187 39 350,000 34 634,024 38
7,993,279 99,408 99,566 3,443,613 43 4,600,000 58 3,163,955 58
 都市警察当局の記録は、この地域における死傷者数19万9千人が日本全体の死傷者数の大半、すなわち40%にまでのぼったことを示している。そしてこの3都市の数字の約60%が、1945年3月10日の1回の空襲によるものであった。行方不明者の数はこの地域ではつきとめられることはなかった。ほかにも本来は死者の中に数えられるはずであった多数の人が計上されなかったことも大いにありうる。同じように重傷を負った人びとのうち、おそらくその傷が原因で後になって死亡した者も多いし、一方軽傷を負ったかなりの多くの人びとの数は報告されることもなかったであろう。こうした可能性を念頭において、表の数字は最小限度のものと考えるべきである。
補   記
5.29横浜大空襲以外の横浜を標的にした空襲
約30回程度の空襲があった。主なものは次のとおり。
○昭和17年4月18日、本土初空襲となったB25によドゥリットル空襲が東京・川崎・横浜(南区堀ノ内)にあった。
○昭和20年2月16、17日、艦載機による空襲が横須賀・横浜(国道16号線沿い)にあった。
○昭和20年4月15〜16日、B29による川崎を中心(横浜工場地域)とした空襲があった。
○昭和20年5月24、25日、B29による京浜大空襲が東京・川崎・横浜(旧市内)にあった。

横浜を標的にした空襲一覧[神奈川県警備部]
昭 和 町 名(区) 後日要修正
17.04.18 堀ノ内町(南。当時は中)※本土初空襲
19.01.09 生麦町・鶴見町・下野谷町(鶴見)、南綱島町・樽町(港北)
20.01.09
20.02.13 生麦町[麒麟麦酒][岸谷][滝坂](鶴見)
20.02.15 [海軍病院](栄。当時は戸塚)
20.02.16 東寺尾町(鶴見)、菅田町・栗田谷町・松本町(神奈川)、釜利谷・富岡・柴町・谷津・金沢・町尾・山王谷戸・深谷(金沢)、川向・小机(港北)、
20.02.17 東寺尾(鶴見)、新子安[横浜ドック・山汐丸(空母沈没)](神奈川)
20.02.19 子安通・守屋(神奈川)、生麦(鶴見)
20.02.25 矢向(鶴見)、[海軍病院](戸塚)
20.03.10 樽(港北)
20.03.20 中山(港北)
20.04.02 平沼(西)、大場・恩田(港北)
20.04.03 瀬谷・二ツ橋(戸塚)
20.04.04 守屋・新子安[安田倉庫・ビクター・昭和電工]・斎藤分町・西寺尾・平川・六角橋・西神奈川・白幡(神奈川)、平沼・高島通(西)、日吉宮前・日吉本町・箕輪・新吉田(港北)
20.04.07 藤棚(西)、?(南)
20.04.15
〜16
上末吉・佃野・豊岡・鶴見・市場・尻手・菅沢・栄・平安・大東・朝日・潮田・向井・浜・生麦・小野・下野谷・本町・汐入(鶴見)、二本榎・旭ケ丘・羽沢・菅田・松本・入江・子安・神明(神奈川)、浅間・平沼(西)、[山下公園岸壁]・旭台・簑沢・寺久保・麦田・西竹之丸(中)、中村・睦・堀ノ内・東蒔田・南太田・清水ケ丘・山谷・大岡・井土ケ谷・上大岡(南)、天王町・宮田町・岩間町・川辺町・月見台・上星川・峰岡(保土ケ谷)、滝頭・浜・禅馬・原・中根岸(磯子)、日吉・北綱島・樽・大曾根・菊名・諸岡・篠原・小机・新吉田・信野(港北)
20.04.19 井土ケ谷・上又野(南)、瀬谷・唐沢・白根(戸塚)
20.04.23 岡津(戸塚)
20.04.24 井土ケ谷[日邦]・睦・八幡橋(南)、天王町(保土ケ谷)
20.05.17 ?(戸塚)
20.05.24 市場下・下末吉・尻手(鶴見)、西神奈川・六角橋東・白楽・栗田谷・松本・西寺尾・斎藤分町(神奈川)、東ケ丘・浅間台・浅間・霞ケ丘(西)、山元町・伊勢佐木(中)、西谷・桜ケ丘・上星川・二俣川・釜台・峰沢・宮田・岩崎・市沢・初音ケ丘(保土ケ谷)、鳥山・大豆戸・箕輪・小机・篠原・綱島北・太尾・日吉元・川和・青砥・新羽・上菅田・新吉田・東小田・山田・元久保(港北)、倉田・上倉田・岡津・瀬谷・戸塚・上郷・舞岡(戸塚)
20.05.25 野毛・大綱・東本郷・鉄(中)
20.05.29 鶴見町・仲町・潮田町・菱ケ谷町 (鶴見)
西神奈川町・六角橋町・白幡町・立町・平河町・富家町・鳥越・二本榎町・二ツ谷町・松本町・上町・中町・下町・旭ケ丘・松ケ丘・高島台・桐畑・鶴屋町・青木通・金港町・神奈川通・高島町・新浦島町・御殿町・亀住町・子安・入江町・神ノ木台・守屋町・栄町・大口仲通・西寺尾・斉藤分町・稲荷台・子安台 (神奈川)
高島通・高島町・花咲町・宮崎町・石崎町・天神町・紅梅町・戸部町・御所山町・伊勢町・赤門町・霞ケ丘・境之谷・西前町・杉山町・扇田町・浜松町・久保町・元久保町・藤棚町・南浅間町・平沼町・岡野町・南幸町・北幸町・南軽井沢町・橘町・北軽井沢町・浅間台・宮谷町 (西)
桜木町・北仲通・本町・海岸通・元浜町・弁天通・南仲通・太田町・日本大通・相生町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・山下町・元町・新山下町・長者町・吉田町・伊勢佐木町・福富町・東仲通・西仲通・曙町・羽衣町末広町・蓬莱町・末吉町・若葉町・弥生町・花咲町・野毛町・宮川町・日ノ出町・初音町・英町・赤門町・本郷町・本牧町・緑ケ丘・北方町・小港町・千代崎町・上野町・諏訪町・三之谷町・本牧元町・大里町・間門町・十二天・大和町・荒井町・和田町・西ノ谷町・麦田町・妙香寺台・立野町・柏葉・山元町・竹ノ丸・鷺山・旭台・加曾台・池袋・矢口台・山田町・山吹町・豆口・西竹ノ丸・大手町・山手町・石川町・打越・吉浜町・松影町・寿町・扇町・翁町・不老町・万代町 (中)
井土ケ谷町・下町・仲町・上町・中島町・通町・唐沢・中村町・永楽町・八幡・山谷・黄金町・高根町・白妙町・三吉町・中町・浦舟町・真金町・二葉町・日枝町・南吉田町・吉野町・高砂町・初音町・前里町・富士見ケ丘・蒔田町・榎町・宿町・宮本町・花ノ木町・新川町 (南)
川辺町・峰岡町・和田町・星川町・岩間町・宮田町・桜ケ丘・神戸町・西久保町・岩井町・岩崎町・霞台・瀬戸ケ谷町 (保土ケ谷)
西根岸町・馬場町・丸山町・滝ケ頭町・扇ケ谷
20.06.10 本牧町・三之谷町・大里町・元町(中)、富岡町・昭和町[日飛]
20.07.10
20.07.13 ?(鶴見)、?(戸塚)、大岡町(南)
20.07.18
20.07.25 ?(鶴見)
20.07.28 ?(鶴見)
20.08.03 瀬谷町[駅](瀬谷)


横浜市が調査した5.29横浜大空襲の罹災状況(昭和20年11月報告)
罹災人口 死者 傷者 罹災面積 罹災戸数
375,819人 5,830人 6,358人 6,946,385坪 93,378戸


戦争による神奈川県下の被害(神奈川県警察部・昭和20年9月報告)
戦闘参加者 うち戦死者
199,084人 46,880人 23.5%

空襲による被害
全 焼 一部焼失 全 潰 半 潰 罹災者 負傷者 死 者 強制疎開による
住宅破壊
140,898戸 414戸 952戸 1,296戸 587,315人 16,195人 5,931人 35,432戸


横浜市統計書に見る人口等の推移
横浜市 世 帯 人 口 学童数
(小学校)
住宅戸数
昭和12 160,211 759,700 111,982 124,391
昭和13 163,380 777,500 115,987 137,046
昭和14 178,810 866,200 137,245 -
昭和15 198,415 968,091 139,721 -
昭和16 209,379 999,400 141,223 182,678
昭和17 212,976 1,015,900 142,948 -
昭和18 218,320 1,028,661 139,335 -
昭和19 209,443 1,018,839 135,936 206,689
昭和20 142,074 624,994 15,599 87,576
昭和21 154,755 706,557 84,471 -
昭和22 177,892 814,379 93,919 85,066
昭和23 185,375 859,324 100,265 142,372
昭和24 198,240 911,835 108,252 148,829
昭和25 210,454 951,189 116,285 151,872
昭和26 221,980 1,001,860 123,404 182,045
昭和27 231,567 1,039,265 123,800 186,877

区 別 国勢調査 人口調査
昭和10.10.01 昭和15.10.01 昭和19.02.22 昭和20.11.01 昭和21.04.26
鶴見区 113,962 172,587 194,928 95,290 119,726
神奈川区 109,573 130,883 135,108 62,573 85,456
西 区 125,565 139,720 133,200 43,367 66,442
中 区 125,964 139,263 132,774 43,235 77,014
南 区 129,950 143,014 144,997 91,870 118,578
保土ケ谷区 58,508 66,529 67,462 58,025 64,778
磯子区 25,999 41,566 59,426 44,576 57,460
金沢区 23,845 35,400 50,610 37,963 48,936
港北区 47,510 56,432 64,385 86,314 87,958
戸塚区 34,505 42,697 52,431 61,781 65,330
796,581 968,091 1,035,321 624,994 814,379

略 年 表

大正14(1925)
04.22 治安維持法公布(普選法案との抱合せ)
05.05 普通選挙法公布
昭和02(1927)
05.28 山東出兵、抗日運動激化
昭和03(1928)
03.15 日本共産党大弾圧事件
07.01 特別高等警察を全国設置
昭和06(1931)
09.18 満州事変(謀略による満州派兵)
昭和07(1932)
01.28 上海事変(満州建国工作のための謀略)
03.01 満州国建国(日本の傀儡国家樹立)
05.15 五・一五事件(軍部による最初のクーデター)
昭和08(1933)
03.27 国際連盟脱退(国際的孤立化)
昭和11年(1936)
02.26 二・二六事件(国防国家体制の強化)
昭和12(1937)
07.07 盧溝橋事件(日中全面戦争へ突入)
10.01 防空法施行(04.05公布)
11.06 日独伊防共協定成立
12.11 南京陥落祝賀行事
12.26 国民歌「愛国行進曲」発表
昭和13(1938)
04.01 国家総動員法公布
10.27 武漢三鎮占領
昭和14(1939)
01.18 内務省、1市町村につき1基の忠霊塔建設
04.01 第6次町村合併。戸塚区・港北区新設
警防団令施行(01.25公布)
04.10 賃金統制令施行(03.31公布)
07.15 国民徴用令施行
09.01 ナチスドイツ、ポーランド侵攻
09.18 物価統制令(09.18禁令、10.20実施)
昭和15(1940)
06.01 砂糖・マッチ配給切符制
07.06 社会大衆党解散
08.15までには政友党・民政党も解散
07.07 ぜいたく品の製造販売禁止
10.12 大政翼賛会創立
11.02 大日本産業報国会創立
11.10 皇紀二千六百年式典(〜14)
12.08 東京開港反対市民大会(16.05.20開港)
12.13 新聞統制・神奈川県新聞創刊
12.23 神奈川県文化翼賛連盟創立
昭和16(1941)
01.08 東条陸軍大臣「戦陣訓」を示達
02.01 横浜市内798町内会の結成大会
03.10 治安維持法改正(予防拘禁制など)公布
04.01 国民学校制施行
米穀配給制・外食券制実施
06.22 独ソ戦開始
07.21 文部省「臣民の道」発行
08.21 木炭・薪などの代燃車登場
09.10 野菜配給切符制
09.20 味噌・正油配給切符制
11.26 菓子配給切符制
12.08 真珠湾奇襲・太平洋戦争突入
昭和17(1942)
02.01 衣料点数配給切符制実施
「神奈川新聞」発足
02.15 シンガポール占領
02.18 大東亜戦争戦捷祝賀大会
04.18 東京・川崎・横浜B25初空襲
05.01 東横・京浜・小田急合併して東急に
06.05 ミッドウェー海戦(敗北のはじまり)
07.24 新聞1県1紙制実施
10.01 新聞全国54紙に統合
昭和18(1943)
01.08 学徒勤労動員年間連続4か月を決定
02.02 スターリングラードでドイツ軍降伏
02.08 魚類登録販売
02.09 ガダルカナル日本軍撤退
03.24 横浜市内金属回収令による強制供出
04.01 中学校・高等女学校4年制、教科書国定化
05.29 アッツ島日本軍玉砕(全滅)
09.05 花月園の猛獣(熊など)を処分
09.22 男子就業禁止職種、女子挺身隊編成
などを閣議決定
12.01 南区新設(防空体制のための分区)
昭和19(1944)
01.09 新防空法公布(建物強制疎開等を規定)
01.14 県通牒で高等女学校生徒募集禁止
01.26 初の建物強制疎開命令
03.06 新聞夕刊の発行禁止
04.01 西区新設(防空体制のための分区)
旅行制限、旅行証明書発行
04.08 京浜地区人員疎開措置要綱を通牒
06.19 マリアナ沖海戦敗北、制海権失う
07.08 学童集団疎開実施要綱発表
07.16 サイパン島日本軍玉砕(全滅)
08.04 国民総武装を閣議決定(竹槍訓練開始)
08.23 学徒勤労動員令、女子挺身隊勤労令公布
10.24 フィリピン沖海戦、神風特攻隊第1陣出撃
昭和20(1945)
02.11 ヤルタ協定
03.10 東京大空襲
05.08 ドイツ無条件降伏
05.25 京浜大空襲
05.29 横浜大空襲
06.21 沖縄戦、日本軍玉砕(全滅)
07.26 ポツダム宣言
08.06 広島に原子爆弾投下
08.08 ソ連、対日宣戦布告
08.09 長崎に原子爆弾投下
08.15 日本敗戦(終戦)
内務省、占領軍向け性的慰安施設設置指示
08.20 灯火管制解除
08.30 マッカーサー横浜に進駐
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◆ おわりに ◆
 有事立法やメディア規制法、住民基本台帳ネットワーク・・・次から次へ何でも法制化しようとしている。人は生まれたときから自由で平等だという。頭の中ではわかっているのに、モラルが喪失してしまった今、早急にルールが必要だという訳だ。政治家(屋)ばかりでなく、官僚も、会社も、どんな人もモラルがなくなって、権利も義務もはき違え、平和憲法ともてはやされた憲法も改憲論が声高に叫ばれる。そんな現代に似ている時代がかつてあった。
 「歴史は繰り返す」とはいうが、人によっては「歴史は繰り返していない、ただ似ているだけだ」ともいう。そして「歴史に学べ、そして繰り返すな」とも。だから、30万人以上の人びとが爆撃と猛火の恐怖を体験し、1時間ほどで1万とも3万ともいわれる死傷者を出した昭和20年5月29日の横浜大空襲をデータであらわしてみた。何かを感じ取ってもらえれば、それだけでいいと思うのは消極的だろうか?
 平和憲法といわれる「日本国憲法」の個々の条文の解釈について云々するよりも、あの憲法が何のために制定されたのか、このページばかりでなく、第二次世界大戦・太平洋戦争関連のホームページを見てから、憲法前文を読み、そして自分の家族や友人・恋人の笑顔を思い浮かべて欲しいと思う。

 NHKの「課外授業・ようこそ先輩」で黒田征太郎氏が出演した。その中で、児童に自分の好きな風景画を描かせたあと、その絵の上に想像した戦争の情景を描かせた。こどもたちは、戦争とは自分の好きな風景を無惨に破壊するものだということを自分自身で気づく。翌日、野坂昭如氏の「凧になったお母さん」をみんなで読む。その後、読後感を前日描いた戦争画の上に重ねて描かせた。こどもたちは戦争の業火の中でも生きのびようとする人間の姿や、戦争の中の無力な人びとの悲しい姿を描く。そして命の大切さを知る。

 「有事」とは何か?「自衛のための戦闘」とは何か?「誰を救い、誰を殺す」のか?「誰が犠牲になり、誰が責任をとる」のか?第二次世界大戦のとき「戦争犯罪人」は誰だったのか?戦争を始めた責任者は誰で、どう責任をとったのか?

 国民の自由を奪い、命を犠牲にする立法をする以上、戦争決定者に対する処罰規定を設けてもらいたい。命を犠牲にして国を守れというのなら、自分の命を犠牲にしてまで戦争を決定する覚悟を明記してもらいたい。歴史上、国家のための戦争は指導者が死ねば終わり、民衆のための戦争は指導者が死んでも続くものだ。いずれにしろ、戦争に大義はあっても正義はない。例え国が滅んでも戦争には反対したい。人間は平和であればどんな国にでも住むことができる。日本人が日本でしか暮らせないなら、外国に住もうという日本人は現われないはずではないのだろうか?国という地域、国境という目に見えない境界線に縛られている自分に今だから気づくときではないのか?なぜアジアにECのような発想が生まれないか?その発想がないのに国連の決定に従うのはどういう思考なのか?平和は守ろうという強い意志を持たねばならない。でも、「戦って守る」というのは矛盾がある。「戦わずに守る」それこそが真の指導者・政治家・国民の取るべき道だと思う。