保土ケ谷區(二俣川村・都岡村) ※昭和14年以前からあった町はコチラ

■川井町 カハヰチヤウ   世帯数 六四   人口 三七四
  元、川井村と稱して都筑郡の内なり、武藏風土記に「古へは御厨屋の庄とも榛ケ谷庄などとも唱へしよし、されど舊くは御厨屋を三栗谷とも唱へしにや、文祿二年の水帳にも小机の内三栗谷庄としるせり」と見えたり、正保の頃のものには川井村とのみ記して上下の區別なかりしに、寛永頃の御朱印には上河井村とあるより見れば、この頃上下を分かち三村となりしものか、元祿の頃のク帳には既に上川井、川井、下川井の三村に分かちて記せリ、コ川氏江戸入國後は村高百四十九石三斗二升五合の内其一部を元和元年駒井右京亮親直に賜はり殘餘を御料となせしにいつの頃にか鈴木作兵衞、倉林五郎右衞門の釆地に賜はりしも鈴木の釆地は其後公収して御料となせり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱を行へる際、隣村今宿村、下川井村、上川井村、上白根村、下白根村と共に併せて都岡村を立て其大字川井となる昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名を採りて村名に付せり、村名の起りは詳かならざれ共、土人の傳へによれば古へ多摩郡川井村の者來りて此地を開きしより遂に村名となれりと云ふ。

■下川井町 シモカハヰチヤウ   世帯数 一八二   人口 一、〇〇七
  元、下川井村と稱して都筑郡の内なり、古き沿革は川井町の條に同じ、コ川氏江戸人國後は其村高二百三†一石三斗四合の内を裂き旗下倉林某の知行に與へ子孫世々之れを襲へり、明治維新後の變遷も又川井町と同じく都岡村の大字下川井となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し、旧村名を採りて町名に付せり、村名の起りは川井町に同じ。

■今宿町 イマジユクチヤウ   世帯数 一七五   人口 一、〇一五
  元、今宿村と稱して都筑郡の内なり、武藏風土記に「隣村二俣川村の内に本宿と唱ふるあり、當村を今宿と云ふ時は、この邊もとは宿驛にてもありしにや、小名鎧ケ淵及び鶴ケ峰も二俣川村の内なりしを後に當村に屬せりと云へば、元は二俣川村の分クなりしも知るべからず」と載せたり、小田原北條氏劃據の頃は其家人岩本和泉の知行所にて永祿の頃には既に一村たりしなり、コ川氏江戸入國後正保の頃には村高三百六拾七石二斗九升五合は旗下美濃部文左衛門の知行となるも、元祿十六年上知し其後白井平右衛門に賜はりしが之れ又正コ四年罪ありて召放され、又寶永四年二月木村作太夫重利に村内の一部を食邑に賜はれり、貞享の頃新田十六石五斗餘を開きて之れを御料とせり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬せり、明治二十二年町村制實施に當りての變遷は川井町と同じく都岡村の大字今宿となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷区に屬し舊村名を採りて町名に付せり、村名の由来を傳へす。

■上川井町 カミカハヰチヤウ   世帯数 一五三   人口 九八八
  元、川井村と稱して都筑郡の内なり、古き沿革は川井町の條に同じ、コ川氏に至り村高三百五十四石八斗三升八合の内、寛永の頃二百七十三石餘を裂きて旗下庄定之丞の先祖某に賜はりしがいくばくもなく公収し、正保の頃鈴木作兵衛の釆邑とせしも又間もなく収公せられて御料となる、明治維新の變遷は又川井町に同じく都岡村を立て其大字上川井となれり、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名を採りて町名とせり。

■上白根町 カミシラネチヤウ   世帯数 四八   人口 三一〇
  元、上白根村と稱して都筑郡の内なり、古へは小机百八クの一にて小机領なりしと云ふも中古以後は~奈川領に屬せり、白根は文化の頃迄は上下の區別なく一村なりしを其後上白根、下白根の二村に分てり、小田原北條家分國の頃にほ遠山左衛門所領す、コ川氏江戸入國後村高百八十六石餘の一部を裂きて旗本藤川十右衛門に與へ其餘は御料とせり、明治維新に及びて~奈川縣の管轄となる、明治二十二年町村制實施の際の變革は川井町に同じく都岡村を立て其大字上白根となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名を採りて町名に附せり村名の起りを傳へず。

■白根町 シラネチヤウ   世帯数 八四   人口 五四三
  元、下白根村と稱し都筑郡の内なり、古き沿革は上白根町に同じ、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名を採りて町名に附せしが、昭和十六年一月一日白根町と改稱せり。

■二俣川町 フタマタガハチヤウ   世帯数 四八三   人口 二、八七八
  元、二俣川村と稱して都筑郡の内なり、古へは御厨ク榛ケ谷庄に屬せしと云ふ、又初めは小机領に屬せしが後には~奈川領に改まりしと、其證には今に榛ケ谷等の地名殘れり、小田原北條氏の頃は其家人岩本和泉が知行せし事所領役帳に載す、又いつの頃か桑原右近と云ふ者の知行せし事もありしと言傳たり、コ川氏江戸入國後一旦御料所となりしが、慶長六年村高八百三十六石六斗一勺の内を裂き旗下宅間治部少輔規富に賜ひ、又天正十九年渡邊孫三郎勝、元和二年十月稲富宮内重次等都合三人に賜はり、更に正徳四年新見某、同五年安藤志摩守定知にも頒ち御料私領入會せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十二年町村分合改稱の實施に當り隣村三反田村、小高新田、市野澤村、今井村と共に併せて二俣川村を立て其大字二俣川となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷区に屬し舊村名を採りて町名とす村名の起りにつき口碑存せり、即ち隣村長津田村、川井村の二村より湧出する二條の小流あり、その川井村の東の方にて一條となる所又をなすより村名となりしと云へり。

■三反田町 サンタンダチヤウ   世帯数 一九   人口 一三一
  元、三段田村と稱し都筑郡の内なり、之の村古へは川嶋村の内なりしを、正徳五年十二月村高六十四石三斗六升二合を劃き安藤志摩守定知へ賜はりしとき分村して一村なすと言ふ傳へあるも、正保の改定國圖には已に一村に記せるより見れば先に言ふ正徳の分村は誤りなるべし、志摩守の子孫世々知行所たり、明治維新後~奈川縣管轄に屬す明治二十二年町村分合改稱實施に當り、隣村合併改稱は二俣川町と同じく二俣川村を立て其大字三反田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊町名を採りて町名とす村名の起りは古へ之の村至つて小村にて開發せしとき、水田僅かに三段ありしのみなるより、いつしか村名となりしとの傳へあり。

■小高町 ヲタカチヤウ   世帯数 一六   人口 一一九
  元、小高新田と稱して都筑郡の内なり、之の村今より二百五十餘年前の貞享四年小高市右衞門なる者之の地未墾の原野空閑の地多きより開墾を企て、川井、二俣川、今宿、白根、今井、市野澤等六ケ村に散在せる原野と久良岐郡戸部村の秣場の飛地など數多の空地を集めて開墾したる地なれば隣村との界域も定めがたく入合へり、尚市右衞門は鎌倉郡岡津村及び郡中二俣川村界の原野をも開き之れを岡津新田と唱へしがいつの頃か之れを小高新田の部に加はれり、村高百七十九石五斗六升支配者詳かならず(史料を缺く)明治維新後~奈川縣の管轄に屬す、明治二十ニ年の町村分合改稱後は二俣川町の條に同じく二俣川村の大字小高新田となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名の小高を採りて町名とせり、村名の由来は開發者たる市右衞門の家號を以て村名となせるなり。

■市澤町 イチザハチヤウ   世帯数 八八   人口 五五六
  元、市野澤村と稱して都筑郡の内なり、古へは榛ケ谷庄に屬せしと云ふ、コ川氏江戸入國後村高三百六石五斗九升四合は御料所となせしが寶永四年旗下木村作太夫重利の釆地に賜はり子孫世々知行せり、明治維新後は~奈川縣の管轄に屬す、明治二十ニ年の町村制施行の際の變革は二俣川町の條に同じく二俣川村を立て其大字市野澤となる、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名中、野の字を除き市澤町と町名せり、村名の起りを傳へず。

■今井町 イマヰチヤウ   世帯数 一一七   人口 七二一
  元、今井村と稱して都筑郡の内なり、古へ之の村も小机百八クの内なりしとの傳へあり、小田原家人所領役帳に小机の内今井としるし、谷泉なるもの知行すと載せり、コ川氏江戸入國後天正十九年村高百八十六石七斗七升四合の内を有田九兵衛吉貞の知行に賜ひ子孫世々之れを襲げり、明治維新後は~奈川縣の管轄となる、明治二十ニ年の町村分合改稱を施行せる際は二俣川町の條に記せると同じく二俣川村を立て其大字今井となり、昭和十四年四月一日濱市に編入保土ケ谷區に屬し舊村名を採りて町名とせり、村名の由来につき武藏風土記の言ふ所によれば昔木曾義仲の家人今井四郎兼平之の地に居住せし地なれば村名となりしなど云傳ふれど證すべき事なし、恐らくは今井と云ふにより、兼平が著名の武士なりしより斯く附會せしにあらすやと云へり。


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