拡大写真 no.101 光太夫、「下関」を見聞す
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 「あさかぜ」が満席だったために「はやぶさ」に乗った。寝台特急は「サンライズエクスプレス出雲」以来だったので、乗り心地の悪さには閉口した。起動車の切離し、連結の振動だったのか、ただ単に牽引によるものだったのか定かではないが、よく揺り起こされた。A寝台のシングル個室は椅子兼用のベッドが1つ。小さな洗面台が付いている。ドアはデジタルキーで暗証番号を入力してロックする。隣にサロンカーが連結されているものの、椅子が古くてガタピシするせいか利用者は少ない。

 下関に着くと、それに時間を合わせるかのようにカラフルな電車がホームに並んでいた。その昔は、九州への連絡口として、また中国・朝鮮半島への表玄関として繁栄していたことを、ホームにあるタイル張りの洗面設備で想像できる。駅舎はいたって古くもなく新しくもない三角屋根。改札を出、通路の広さが多くの人が行き交っていたことを物語っている。

 とりあえず海側に出る。すぐに目に入った「漁港食堂」で朝食をとった。店内が名に似合わず小奇麗なので驚いた。おかみさんもあか抜けている。こめかみに梅干を貼った顔にカッポウギ姿を想像していただけにギャフンといった感じだった。メニューには、貝汁定食600円、鳥の唐揚定食680円、トンカツ定食750円、親子丼450円などと書いてある。朝は朝定食500円のみ。この日は、さば塩焼き、サンマ塩焼き、肉じゃが、メバルの煮付。メバルを頼む。2尾付いて美味かった。

 反対の駅前、つまりバスターミナルのある側は、ペデストリアンデッキがかなり遠くまで続いている。銅像やモニュメントが設置されていたり、大きな商業ビルや東急インが隣接する。その先には下関タワーや関釜フェリーのターミナルが見える。ヤシの並木が続いているのもちょっと妙な風景だ。

 幕末・明治維新で激動の真っ只中にいた下関だけあって、高杉晋作や京から逃れた七卿など尊皇攘夷の志士たちにまつわる場所があちらこちらにある。

 駅構内の観光案内所で情報を得る。しかし、思いのほかあしらい方が冷ややか。こちらから根掘り葉掘り聞かないことには、ちっとも応えてもらえない。パンフもそこにあるだけだからご自由にというし、見どころは?と聞いても、パンフに書いてあるとおりですという。そりゃそうなのだが、はなからこのありさまでは期待が持てなくなってきた。

 サンデン交通のバス案内所で「関門周遊一日パスポート」1000円を買って、唐戸行きのバスに乗り込んだ。パスポートは、下関〜長府間のサンデン交通バス、人道トンネル門司口〜門司港の西鉄バスに乗り放題で、関門連絡船に2回乗船できるスグレもの。だからまず、下関がまだ馬関だった面影を求めて唐戸周辺を目指した。

 ところが悲しいかな観光にとっては「魔の月曜日」で、ほとんどの観光施設が休館日。ただただ門や玄関を眺めるのみ。

 商売も終わりに近い唐戸市場をのぞいて、その対面にある亀山神社に登る。主殿は八幡宮。ここが山陽道の基点になっているだけに尊崇も厚く建物や境内は立派だし、禰宜や巫女も多そうだ。境内に続く展望所に座る。妙に落ち着かないので周りを確かめてみると、この展望所が、神社の下にある店舗の屋上だったことに気づいた。境目をよく見ると、神社の石垣に数センチの間をあけて店が建っていた。境内には下関開発の埋立てで人柱になったお亀さんの祠と由来のあるイチョウがある。そのイチョウの実「お亀ぎんなん200円」が売られている。アバタのあったお亀さんゆえにイチョウの実にアバタがあるという。「このまま食べられるの?」と聞いたら、「鍋で炒るか、電子レンジでチンするといい」とのお答え。「アバタはどれ?」の質問に「このポツポツです」という。あれ?イチョウの実にポツポツは当たり前じゃなかったっけ?などと思いながら買ってしまった。とにかく、難病治癒に霊験があるのだそうだ。後日談、電子レンジでチンしたら、思いっきりバクハツしてしまった。みなさん、くれぐれも気をつけよう。

 亀山神社は、伊藤博文が懸想した境内の茶店の娘(のちの奥さん)との縁結びで有名になった。参道の階段脇には床屋発祥の碑がある。鎌倉時代、公家が髪結所をつくり、床の間に天皇を祀る祭壇があったために、この店を「床屋」というようになったとか。

 日清戦争の戦後処理として、下関が舞台となった日清講和条約関係の史跡がある。舞台となったのは、春帆楼とよばれる割烹旅館。名付けたのも伊藤博文だったが、条約交渉の候補地として指名したのも伊藤博文、またフグ(山口県では、ふく)の公許を出したのも伊藤博文だった。おかげで一躍歴史の表舞台に登場し、今では、ふく料理でも屈指の割烹旅館となり、地元では婚礼会場の有名ブランドともなっている。敷地内には「日清講和記念館」が建ち、館内にはその当時をしのぶ資料や調度類が陳列されている。

 春帆楼の前から李鴻章道という山腹を行く細い道が続く。この道は、条約交渉の際、清国の全権だった李鴻章が暴漢に襲われたために、宿舎としていた引接寺の前から人目を避けて春帆楼へ通ったというものだ。階段を登りきったところには、五線譜のアーチの門がある「われらのテナー」藤原義江の記念館がある。

 李鴻章が宿泊所に使った引接寺。山門の天井には左甚五郎作といわれる竜の彫刻がある。左甚五郎もここまで来るとは忙しい。境内の墓地には網元の墓などがあり、この寺の歴史がしのばれる。

 赤間神宮に戻ろう。この辺りには阿弥陀寺という寺があったそうだ。明治の神仏分離・廃仏毀釈で、赤間神宮、安徳天皇陵、割烹旅館になる。赤間神宮はあまりにも有名なので多くは語らない。以前にも春秋暑寒no.035で紹介した。つまり、赤間神宮には2度目の参拝となる。下関の旧称・馬関は、赤間関(あかまがせき)と呼ばれていたものを赤馬関と書き、それが馬関(ばかん)になったともいう。

 平氏と源氏の違いを「一人の栄達を機に一族の繁栄へ結びつけ、没落とともに一族諸共に滅亡した平氏」と「一人の栄達を機に、その行く道を遮るものが親兄弟であろうと倒し、滅ぼし、屍を踏み越えてまで戦う源氏」に表現することができると聞いたことがある。

 赤間神宮の脇を登ると、大連神社がある。「おおむらじ」かと思ったら、中国の大連だった。日本のアジア侵略戦争の際に、入植地へ持っていった神社が、終戦とともに日本へ帰ってきたものだ。よくもまアと思ったが、中が荒らされているところをみると、こころよく思っていない人もいるようだ。ただこれを日本固有の文化という考え方、歴史の証人という位置付けからみれば誰も見ていないところで荒らすのもどうかと思われる。また、敷地内に大東塾(終戦時に皇居で集団割腹自殺した事件)の忠烈碑が建ち、三笠宮夫妻の植樹があるのも気にかかる。

 そこで、下関駅へ戻り、朝鮮の人たちの商うグリーンロードを抜けて、桜山招魂社へ向った。

 途中、昼食をとっていないのを思い出し、道端の食堂「舞米亭」へ入った。総合病院に近いせいかいろんな定食がそろっている。滅多に食べられない「クジラカツ定食」を頼んだ。いやはやボリューム満点で味もよかった。値段はそこだけ張り込んである。どうも、時価らしい。それで700円は安い。

 町はずれという雰囲気の桜山招魂社。本殿の裏へ行かなければどこにでもある神社に見える。本殿の中には吉田松陰の大きな木造が飾られている。裏手には、幕末・明治維新で落命した長州藩の志士たちの慰霊石柱が整然と並んでいる。身分の隔てなく戦う奇兵隊を組織した高杉晋作が発案したものだそうで、出身や役割に関係なく長州藩のために死んだ者を同じ大きさの石柱、同じ大きさの彫り文字・姓名にしてある。ただし、入ってすぐの真ん中に一段高く長く大きく「松陰吉田」があり、その隣が「高杉晋作」と「久坂玄瑞」という具合。これが、東京九段・靖国神社の前身・東京招魂社のルーツだ。

 今度は、長門の国府・長府に向った。

 熊襲征伐に遠征した仲哀天皇・神功皇后を祀った忌宮神社から見る。この辺りに豊浦宮を建てて、熊襲や新羅と対峙し、蚕種を渡来させ養蚕のもとをつくったとか、熊襲に呼応して攻めてきた新羅の塵輪を倒し、その首を埋めて石で塞いだとかいろんな話が伝えられているが、仲哀天皇が神話の世界の人だから少々不可解ながら、結構面白い。

 その裏手の続いたところに乃木神社がある。明治の元勲・乃木希典を祀る神社だ。復元した生家と、おもいより(寸志)で見学できる宝物館が建っている。父親の訓話にこうべを垂れる母子と、珍石・奇岩のコレクターだった大将のこと、明治帝に殉じた際に使用し、血糊のついた刀の拓本などなど通り過ぎるには惜しいところだ。

 長府の武家屋敷は、金沢よりもやはり萩の趣きに近い。整備もかなり念入りに行われているようだが、住居表示のプレートのミスマッチと、細い路地をものともせず歩いている人の脇を猛スピードで走り抜けていく地元車の傍若無人には閉口した。

 毛利家庭園、長府毛利家の菩提寺・功山寺、その境内に隣接する長府博物館、万骨堂など見て回るところはかなりある。月曜日でもなく、雨も降っていないのなら、かなり充実した日程をこなせたかもしれないが、長府の成り立ちはインターネットで調べてみると面白い。

 関門大橋の下、御裳川(みもすそがわ)に戻る。ここからは、源平合戦・壇ノ浦の古戦場が間近に見える。道路を渡ると関門トンネル人道の入口がある。エレベーターで一気に地下へ降り、780mの地底(海底)散歩を楽しもう。思いのほか人出が多い。そのほとんどはウォーキングかジョギングだ。歩いてみて実感したが、歩き始めに緩やかな弧を描くトンネルを下っていくように感じる。そして、それが県境・海峡の中心へ行っても、まだまだ下っていくような感覚にとらわれている。そうこうしている内に門司側に着いてしまう。逆もまた真なりで、やはりトンネルを下っていくような錯覚にとらわれる。走ってみればきっと上り坂を実感できるのだろうが、歩く分にはやはり下っているとしか感じない。それが、ウォーキングにやってくる要因だと思った。

 下関から対岸の門司港へは、関門連絡船で唐戸から行くのが早くて便利だ。乗ってみると、どんな嵐の中でも運航しているような気がしてくる。岸を離れた途端に、テープで「急旋回、急静止、波のためかなり動揺します。ご注意・・・」とアナウンスがあったと思いきや、競艇のような走りっぷりで波を蹴立てて進む。目の前を走る大型船の前や後ろをすり抜けるように突進する。「ウォ〜!」と思いながら椅子にしがみつき、ふと見ると「救命胴衣は定員の一割を所持」と掲示がしてある。ドキドキしていると今度は「着岸の際、かなりのショックがあるので注意・・・」とテープが流れた。ぶつかるのかとハラハラしたら、思いのほかスル〜っと桟橋に着いた。約5分のアトラクションはどこのテーマパークよりもすごい。これで270円は安い。宮本武蔵もこの船に乗れば巌流島へ遅刻することはなかっただろう。