拡大写真 no.106 光太夫、小町に1回通う
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 男女共同参画社会という訳のわからない世の中で「○○小町」というのは、言葉狩りの対象になるのだろうか。なぜなら「ミス○○」のミスはセクハラ用語の基礎知識に収録されて禁句となってしまったからだ。そもそも、生まれながらにして男と女は違うと、1男2女の子を持つ親としてつくづく思う。何を教えられもしない乳児でさえ、性差がある。統計的にも女が強く生命力が勝ることも証明されている。そこで、神様が女性に妊娠・出産という重荷と苦痛を背負わせたというが、それはこじつけだとして、ともあれ子を持つ母親の強さはタイマーが作動したウルトラマンや印籠を突き出した水戸黄門の強さに似ている。忍耐力や持久力があるだけに、権力を持ったら鬼に金棒。そこで、世の男たちは腕力と団結力により権力を奪取し、法=制度というもので男性優位の社会を形作ったのだ。これが最近は法=制度が平等という名のもとに、腕力を封じ込め、団結しないよう個人主義的な教育を施したから男はからっきしダメになったし、カゴの鳥状態になってしまった。では、男女平等の素晴らしい世の中になったのかといえばさにあらず、今度は女性に結婚・妊娠・出産を積極的に奨励しないし、まわりにも独身者や生活に追われたシングルマザーが見本市状態になったばかりではなく、核家族で親と別居は当たり前になったから男女ともども子育てには無縁、我が子でも捨てたり虐待したりが常識の観さえある。つまり、平等になったのではなく、男にも女にも属さない新生物(怪物)を作り出してしまったのだ。あれもだめ、これもだめ、自他の主張を受入れて対等の討論したがらない利己主義な日本民族にとって、男女共同参画は張り子の虎で、いつ破綻が来るのかお手並み拝見といってはばからない。真に自立すべきは女性なのではなく法=制度の上にあぐらをかいた男たちなのではないだろうか。
 さて、小野小町(おののこまち)は平安初期の女流歌人で生没年不詳。三十六歌仙の一人。〜花の色は移りにけりないたずらに、わが身世にふるながめせしまに〜平安時代は、京都にいる少数貴族が日本を支配していた時代で、庶民は竪穴式住居か掘っ立て柱の小屋に住んでいるような世の中だった。小野小町は、京都市東山区小野町(もと宇治郡山科町大字小野)に住んでいたという。一説には出羽国郡司の娘とか小野篁の孫とかいわれ、仁明天王の采女か中掾E更衣にあったともいう。多くの歌人と贈答を交わし、プレーボーイとして名を馳せた在原業平との話とも重なって伝説の美女になった。その伝説の一つに「深草少将百夜通い」があり、謡曲「通小町」の舞台になった小野町・随心院を訪れてみた。
 「深草少将百夜通い」の物語とはこうである。宮仕えを辞して小野の里に引きこもった小町の住まいに、積もる思いを秘めて深草少将が訪れた。しかし、小町は会うこともなく冷たくあしらい、戯れに百夜通えば・・・と伝えた。そこで少将は「あなたの頑なな心が解けるまで幾夜でも参ります。その第一夜の証として榧の実を置いていきます」といって去った。その言葉どおり通いつめた九十九夜め、その日は雪で、門前にたどり付いた少将は九十九個めの榧の実を手にしたまま倒れ帰らぬ人となった。また、九十九個めの榧の実を置き、帰る途上、橋の雪に足を取られて転落死した。あるいは、雪が激しいので代人をたてて実を置きに行かせたところ、満願の約束に出た小町が応対したためにバレて恋が成就しなかったという話。
 随心院の境内には、小町使用の化粧井戸や小町塚、文を埋めた文塚、深草少将が実を採った榧の大木などがあり、その後の小町の像や文を張って造った地蔵尊がある。ちなみに、小野町内には小町が供養のために少将の榧の実を蒔き、育ったという木が各所にあり、少将が転落したという橋まである。寺には江戸時代に九十九か所確認したという書付があるのだが、ただおかしいのは、その書付の横に「少将の榧の実」という見出しで九十九の実が詰まった箱が置いてあること。おまけに、小町が糸で綴っていたとかで針の穴があいているなど手が込んでいる。絶世の美女・小野小町伝説はここばかりではなく、全国に散らばっている。ということで、まず元祖を訪ねた次第なのだ。
 小町は美女の代名詞であるばかりでなく、仏教思想の中では、美女でも老いさらばえ、死しては彼我の別なく朽ち果てていくという道理を説く題材にもなっている。これが全国へ広がり、能では老女の面を小町といい、表面の毛羽のない糸を小町糸といい、穴がなく糸を通さない針を小町針というに至った。全国に散らばる伝説の中で美女にまつわる話に八百比丘尼がある。人魚の肉を食べたために不老長寿となり、若さと美しさを保ったまま生きながらえるとか、百歳まで老けたところで人魚の肉を食べた年齢に戻って死ぬことがないという話。八百比丘尼伝説はまた後日の機会に譲るとして、いずれにしても「美女」には誰でも関心があり、伝説として語り伝えられる要素をもっていることがわかる。
 ときは秋。ならば近くの醍醐寺へ。醍醐寺は豊臣秀吉の「太閤の花見」で有名な寺だけど、紅葉でも結構名を知られている。池と色づいた山との調和が素晴らしい。が、三門の仁王だけはマンガな顔をしていてちょっと笑える。ただ、ちょっと困ったことがある。なんと境内にフェンスを張り巡らせたのだ。一人たりともタダ見をさせないゾという仏道の奥義を披露している。現代の坊主が金に執着している証拠だ。ある意味では人は性悪にできていると考えていることにほかならない。仏心や悟りを体現するなら、どこからでも入れる開放的な境内があって、拝観料は賽銭箱へとなるのだろうが、現代人にも坊主にもそれがなくなったともいえる。
 今回の交通手段は市営地下鉄東西線。随心院は「小野」。醍醐寺は終点「醍醐」で降りて徒歩。ついでだから「蹴上」で降りて、南禅寺と永観堂に立寄った。
 さすがに南禅寺は人で埋め尽くされていた。浜の真砂と五右衛門が〜絶景かな絶景かなとブツブツいいながら、楼門に登り市内を一望。デジカメであちこち撮るもんだから目立ったらしく、シャッター押しを頼まれること引きも切らず。やっとのことで、水路閣のレンガ柱を眺めながらちょっと休憩して、人の流れに着いていくと永観堂に到着。相変わらず下足袋を渡されて一方通行の順路を黙々と進む。ご存じ見返り阿弥陀如来像のところに至れば建物内部の見学は終了、靴を履いて庭へ出て絵になるカットをパチリパチリ。ひょいっとファインダーに舞妓さんが入った。なんとこんなところで「小町」に出会うとは。舞妓さんも紅葉を見に来るのか〜と思っていたら、その横に禿げたパトロンがいた。小野小町なら百日通えというところなのだろうが、最近の祇園は不景気のせいで金次第とも聞いている。しかし何といわれようと伝統を続けるということは文化である。共同も平等もわからなくはないが、文化を破壊するものを文明とかトレンドとかいって正当化するのはいいかげんにして欲しい。セクハラ同様、それは受ける身の尺度によって違う、良いも悪いも個体差を認め合うなら、悪いの尺度を決めるのではなく、悪いと考えた人と、悪いと思えなかった人との尺度の誤差がどういう理由や環境から生まれたのかを調べ、改善していったり、棲み分けさせたりすることが大事なことなんだと思う。
 子供を産まなければ人類は滅亡する。パトロンがいなければ舞妓さんはいなくなる。そして、小町を否定すれば美は消滅するのだ。紅葉だって、美しいと感ずる人もいれば、生ゴミとしてかき集め分別収集の日時を気にする人もいる。今はまさにそんな時代なのかもしれない。百人百様、十人十色。だから価値もそこから生まれてくるはずなのだが。
 帰路、祇園で一銭洋食を食べ、京都タワーの灯火に袋がかかっているのに苦笑しながら京都をあとにした。