拡大写真 no.107 光太夫、討入りしてみる
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 忠臣蔵300年だというので「本所松坂町の吉良邸へ討ち入ったあと、高輪の泉岳寺まで引揚げよう」と、誰でも考えそうなことを決行することにした。どう考えても黙々と歩かなければならないらしいので、今回は四十七士ならぬ家族全員に招集をかけた。つまり、1人では途中で挫折するか、ルートを外れてウロウロしそうな道筋に思えてしようがないからだ。
 さて、大石内蔵助良雄以下元赤穂藩士四十七士が、吉良上野介義央を亡主・浅野内匠頭の仇として討ち取ったのは「元禄十五年十二月十四日」のこと。それを今の暦になぞらえて、2002年12月14日を討入りの日として記念祭などを催している訳だが、それは「元禄十五年」を「西暦1702年」に対照させているからにほかならない。
 それはそれ、お祭りと割り切ればこれでよしとしなければいけないと思っても、やはり気になる。当時の暦の「貞享暦」(今で言う「旧暦」みたいなもの)の日付を、今で言う「新暦」に当てはめてみると、1703年1月30日になるといわれているので、そこのところをまずひとつ心得て情景を思い描きながら歩きたいと思った。それに、日の出になるまでは十四日で、日が明けると十五日としていたことも考慮に入れておきたい。
 事件当日の江戸は雪だった。今年は、珍しく12月8日にドカっと雪が降ったので、ちょっと気の引き締まるような寒さで、忠臣蔵の雰囲気を味わうにはお誂え向きだった。
 両国を降りると、想像はしていたが、相撲のはねた後のような人出で、改札前はごった返していた。それにしても、ツアーガイドの多いことこのうえない。人の流れに従えば、間違えることなく「本所松坂町・吉良邸跡」へたどりつけた。と思いきや、通り一帯は「恒例・元禄市(義士祭)」ということで、露店や町内のテントでひしめき合い、コースの出発点にしようと押し寄せる人であふれていた。ダンゴだ、ウドンだ、ヤキソバだ、モチだと、ついつい寄り道して挫折しそうな気持ちを振り切って、お歴々が鎮座している松坂町公園をあとにした。
 上野介の首をあげ、討入りを成功させた浪士たちは、まず、追っ手を警戒して、速やかに吉良邸を去り、すぐ近くの寺・回向院へ向かった。当時、吉良邸と回向院は道路を挟んで向かい合っていたといい、寺を砦として用いる軍略のセオリーをまず考えたのだと思うが、とばっちりを恐れた住職が門を開けなかったことから、両国橋東詰へと移動する。
 回向院は明暦の大火で亡くなった10万人にも及ぶ無縁仏を供養するために建立され、縁故のない者を葬り、供養する寺として広大な寺域を持っていた。怪盗・鼠小僧の墓などがある。本所は瓦礫と死体でできた土地だとも言われる所以だ。頼るあてのない浪士が期待したわりには、正反対なほど回向院が俗物化していたことが判る。
 そこで、両国橋東詰の広場で追っ手のかかるのを待った。いわゆる背水の陣なのだろう。川からは軍勢は来ない訳だから、前から迫る敵にだけ撃ちかかればいいと考えたに違いない。でも、追っ手は現われなかった。今はそこに大高源五の句碑が建っている。
 この日(十五日)は、大小名・旗本総登城の日だったため、できるだけ駕籠行列の前を汚さぬこと、無用の争いを避けることと考えて、両国橋を渡らずに隅田川西岸を南下するルートをとったらしい。それに、いつでも追っ手がかかることを念頭にいれていたことを考えると、地の利に詳しく、また全員が討ち死にするにふさわしい場所として、まず赤穂藩上屋敷のあった鉄砲洲をめざし、いざというときには築地本願寺に寄せる、そこを通過してから追っ手がかかったときには内匠頭切腹の一関藩上屋敷近くの愛宕山に寄せることを念頭にしていたと勝手に想像している。なぜなら、午前6時ごろ両国橋を南下し始めた一行が、仙台藩邸前で門番に尋問され、愛宕山下の大目付仙石伯耆守へ浪士2人を自首・顛末を報告させた時刻が午前7時過ぎとなっている。すると、途中休息を取っていることから考えても、大目付への報告が済む、行程11kmの半分までは早足で行動していることが判る。泉岳寺到着は午前9時ごろ、寺から入浴を勧められたが追っ手が来るのを気にして断ったというのだから、いつでも臨戦態勢をとっていたと想像される。
 本によれば、竪川に架かる一之橋を渡ると、一本道を真っ直ぐに、万年橋を渡って右折したとある。が、江島杉山神社の岩屋で頭が仏像、体が蛇の弁天様を詣でたあと、隅田川に出て、シャレた遊歩道・隅田川テラスを川面を眺めながら南下し、点在する芭蕉句碑を読んで、芭蕉庵史跡展望庭園で芭蕉像とご対面。万年橋、清澄橋と、東京の造形豊かな橋の姿を眺めるなど寄り道しながらルートをたどってみた。途中には平賀源内の電気実験の石碑などがポツンとあったりして江戸の奥深さに感心したりもした。
 浪士が甘酒を振る舞われ休息をとったといわれる永代橋手前の味噌屋・乳熊屋のあったビルの前では、しっかり味噌と甘酒を売っていた。試しに1個味噌を買ってみたら、続々と押し寄せる団体ハイカーが我も我もと買いあさるので、なんともあきれた。
 永代橋を渡ってから、霊岸島をどのように通ったかわからないといわれている。が、これまでのルート選択上できるだけ町人地を通ったと断言しておきたい。ただ不思議なのは、当時、町には木戸番や、橋には橋番がいて通行をチェックしていたと思われるのに、抜き身(血糊のついた刀を鞘に収めると、いざといった場合抜刀できなくなる)を下げて、返り血を浴びた身なりにもかかわらず、争いごともなく通行していること。一説では、討入りの噂が最高潮に達しているときで民衆からの歓迎を受けていたという話がある。もう一説では、すべての行動は幕府が掌握していて、Xデーのための対応がとられていたという話。
 とにかく、月島を左手に見て、朝日に映える富士山を正面に見ながら永代橋を渡り、鉄砲洲へたどり着いたのだろう。
 鉄砲洲稲荷神社の脇に富士塚がある、標高5mばかりの富士山をかたどった山だ。昔、富士塚講というのが流行ったそうだ。娯楽がこれといってなかったから、参詣にかこつけた旅行が流行った訳だが、決して旅行費用は安くなかった。そこで講を開き、皆から集めた金で代表として何人かが参詣に旅立ち、代表に漏れた者や通行手形の出ない女子供が富士塚に登り雰囲気を味わったらしい。今はビルに囲まれてしまったが、登ってみると結構楽しい。
 赤穂藩上屋敷跡。今は聖路加ガーデンとして有名な場所だ。石碑は、聖路加看護大学の脇に、芥川龍之介生誕の地碑と並んで建っている。聖路加ガーデンは、明治時代、外国人居留地として使われた。また、近くには佃島渡船場跡があり、ここからは島流しの流人船が出航したとも伝えられ、浪士の子弟が事件後、流罪になったときもここから船が出たというのも何か因縁めいたものがある。
 今は地続きになってしまったが、築地川を渡ると築地本願寺だ。浅草にあったものが明暦の大火で焼失し、この地に再建された。広大な寺域を持ち、現在のインド寺院風の建物は昭和9年に完成したもの。建物の内部もパイプオルガンがあったり、独特のレリーフや彫刻があったりと一見の価値ありで、椅子に座ったりトイレを借りたりもできるので、散策の休憩場所として活用をおすすめしたい。
 広い境内の一角に墓碑などが建ち並んでいる。その一つが赤穂浪士・間新六の供養碑。もともと赤穂藩邸にいたころから信徒だったとか、引揚げで本願寺を通過したとき、持っていた槍に金子を結びつけて投げ入れたためとか諸説あるが、切腹したのち遺体が本願寺に送られて埋葬されたものだという。他の浪士は切腹後、泉岳寺に葬られたが、間新六だけは本願寺(昭和になって泉岳寺へ改葬)なのだ。
 四十七士のうち切腹にならずに生きながらえた寺坂吉右衛門という足軽がいる。引揚げの途中で姿を消したとされるが、何故かわからない。彼が足軽という低い身分で陪審(家臣の家来)であったことが他の浪士と決定的に違うためなのかどうかが気になる。
 その意味では、父が馬廻役の家臣で中心的存在にもかかわらず、間新六は次男であるがため?に刃傷事件の起こった当時浪人という身分だったということと、その次男坊の参加者として唯一の存在というところがポイントと思われて仕方がない。
 今では到底想像もつかないような絶対的な身分社会が形成されていた時代背景がある。父が家督を譲るまで長男は部屋住み身分。その長男が死ぬか養子縁組の話でもない限り次男が日の目を見ることはない。葬られる場所には必ず訳があるものだ。
 ちなみに、内匠頭にしても大石にしても切腹にあたっては、ほとんど形式化していて、小刀を腹にあてる動作で首をはねたという。これに対して、唯一、間新六は腹を一文字に裂いて果てたといわれている。いくら覚悟の上とはいえ豪傑と見るべきか、首をはねるのをわざと遅らせたと見るべきかはあなたの想像にお任せしたい。その際、お預けが長州藩下屋敷だったことも考え合わせてみてほしい。
 本願寺の隣は、かの有名な築地中央卸売市場、例えれば大都市東京の冷蔵庫。急がないならぜひ場内見学をすすめたい。でなければ場外市場で冷やかしか、お昼なら寿司でもつまもう。
 ここからは、東海道に沿って下って行くことになる。とはいっても、本通りではなく、目立つのを恐れて一つ裏手の道を進んでいったらしいが、もうこのころには噂が噂を呼んでかなり凱旋パレード気味に江戸っ子たちに見送られながら進んでいったと考えてもよさそうだ。疲れていたせいもあるけれど、休息をとったという話も聞かないので、少々ペースダウンして裏通りを進んでいったのだろう。
 ここでも、東海道(第一京浜)沿いか、その一つ海寄りの道をたどってもいいけれど、銀座をブラリと抜けて新橋駅を山手へ出、内匠頭切腹地で商っている「切腹最中」を買って、芝・増上寺の前を通って札の辻へ出て行くのも変化があって面白い。

 やっとのことで、泉岳寺に到着。駅前を過ぎようとしたら、人が道からあふれんばかりにひしめいている。ここから寺まではノロノロ。陽も傾いて闇が迫る。山門まで何とか来たがその先がピクリとも進まない。5m前の方から「1m進むのに30分かかってるぞ」との声が聞こえた。とにかく、断念。午後6時から、忠臣蔵パレードがあるというのでは、境内に入った人は出てこないはずだ。

 翌15日。前日とは打って変わって、人とぶつからずに歩ける。露店もない。本堂で参拝して、義士の眠る墓地へ。血染め岩や首洗い井戸を横目に門をくぐる。割竹にのせられた線香を買い、内匠頭の墓をはじめとして線香を手向ける。前の人に続いて順番に線香を置くのだが、もう火事場状態で煙がモウモウと立ちのぼり、目は痛い、鼻・ノドはむせるばかりで、ガスマスクが欲しいほどの有り様。討ち死に寸前で出口へ廻り、境内の一隅で甘酒を飲む。これで今回の「討入り」は一件落着。

 聞けば、ほとんどの人が年中行事としてやってくるという。だから、平日でも参拝客は絶えない。日本人は忠臣蔵が好きなんだな、とつくづく思う。