1850/1860/1870/1880/1890/1900/1910/1920/1930/1940/1950/1960/1970/1980/1990 |
【1860年〜1869年】 |
1860(万延01)年 |
一恵斎芳幾「五ケ国於岩亀楼酒盛之図」刊行 |
1860(万延01)年 |
石橋政方・中山武和が「英語箋」を編纂・刊行 |
1860(万延01)年 |
芳員の「御開港横浜之図」刊行(新栄堂東屋新吉) |
1860(万延01)年 |
一川芳員の「異国人酒宴遊楽之図」刊行 |
1860(万延01)年 |
清水卯三郎が「ゑんぎりしことば」刊行 |
1860(万延01)年01月 |
外国人来住者増加し、借地出願者は30数名に及ぶ |
1860(万延01)年01月 |
五雲亭貞秀が「横浜渡来亜米利加商人旅行之図」刊行 |
1860(万延01)年01月02日 |
イタリヤ商船がはじめて横浜に投錨 |
1860(万延01)年01月16日 |
渡米の新見豊前守一行がカン臨丸のため米人士官・水兵雇入 |
1860(万延01)年01月22日 |
条約批准使節新見豊前守一行が横浜から出航(ポーハタン号) |
1860(万延01)年02月 |
貞秀,「神奈川横浜新開港図」を刊行 |
1860(万延01)年02月 |
堀割川開削(石川・中村から増徳院まで幅10間長さ580間) |
1860(万延01)年02月05日 |
オランダ人2名が本町で殺害される |
1860(万延01)年02月25日 |
カン臨丸が太平洋横断成功(37日間) |
1860(万延01)年03月 |
米人宣教師ゴーブル夫妻,日本人漂流民千太郎を伴い来朝 |
1860(万延01)年03月 |
八巣比巣連が「横浜弁財天献額写」(俳句集)を刊行 |
1860(万延01)年03月 |
一宝斎芳虎「ヨコ羽万けん」が刊行 |
1860(万延01)年03月 |
広重・貞秀の「横浜売物図会」が刊行 |
1860(万延01)年03月 |
「港崎細見」が刊行 |
1860(万延01)年03月 |
貞秀「神奈川横浜新港崎町遊郭花盛」が刊行 |
1860(万延01)年03月09日 |
新見一行がサンフランシスコに到着 |
1860(万延01)年04月 |
一宝斎芳虎が「武州神奈川横浜之図」刊行 |
1860(万延01)年04月 |
貿易商が五品江戸廻送令の実施に反対 |
1860(万延01)年04月 |
横浜商人、五品江戸廻送令反対運動 |
1860(万延01)年04月07日 |
ハリス、銅器輸出禁止を自由貿易既定違反として抗議 |
1860(万延01)年04月11日 |
水油関係の問屋仲買が貿易荷物取締方法を上書する |
1860(万延01)年04月13日 |
江戸町奉行が水油以下の関係問屋に論告 |
1860(万延01)年04月16日 |
外国掛老中がハリスに書簡を送る(生糸・蝋・油の輸出制限) |
1860(万延01)年04月18日 |
江戸町奉行が雑穀問屋に論告(売込商との示談示唆) |
1860(万延01)年05月 |
居留地の外国商人状況(英国18・米国12・蘭国5名) |
1860(万延01)年05月 |
広重の「横浜港崎町楼上之図」刊行 |
1860(万延01)年05月 |
国明の「横浜五十鈴楼之図」刊行 |
1860(万延01)年05月 |
主要移住商人(生糸売込商・緑茶・塗物・陶磁器・洋織物・運送等) |
1860(万延01)年05月 |
町奉行,江戸糸問屋の横浜出店を中止 |
1860(万延01)年05月05日 |
咸臨丸が横浜に帰着 |
1860(万延01)年05月08日 |
江戸糸問屋と売込商総代が協定案(改所設置し相互に出張取締) |
1860(万延01)年05月16日 |
ハリス、幕府の輸出制限に反対の回答をよせる |
1860(万延01)年05月16日 |
外国奉行,問屋出店反対の意向を町奉行に表明する |
1860(万延01)年05月19日 |
外国・神奈川奉行が問屋と売込間協定調印に反対し不成立となる |
1860(万延01)年06月 |
神奈川駅名主石井源左衛門が横浜町総年寄りに追加任命 |
1860(万延01)年06月 |
上半期の横浜貿易率(輸出91.2%,輸入8.8%) |
1860(万延01)年06月 |
上半期の横浜貿易額(輸出162万$輸入73万$) |
1860(万延01)年06月 |
広重が「横浜巌亀楼上之図」刊行 |
1860(万延01)年06月02日 |
横浜洲干弁財天の祭礼(江戸の宮師に神輿を註文・江戸力士渡御) |
1860(万延01)年06月03日 |
ハリス、運上所の洋銀相場掲示を幕府に抗議 |
1860(万延01)年06月20日 |
江戸糸問屋が嘆願書を町奉行に提出(生糸の運送について) |
1860(万延01)年06月23日 |
生糸荷物取引の新仕法(運送法)が実施 |
1860(万延01)年08月 |
苅部清兵衛が売込商より歩合金を徴収し、町費にあてる |
1860(万延01)年08月 |
売込商肥前屋小助外8名,江戸糸問屋の貿易荷改にたいし反対上申 |
1860(万延01)年09月 |
移住商人大幅増加(本町1丁目裏に州干町出来る) |
1860(万延01)年09月15日 |
神奈川奉行が専任職となる |
1860(万延01)年09月27日 |
新見一行が横浜に帰還 |
1860(万延01)年10月21日 |
幕府の触書(西洋人必需の銅器は江戸銅物問屋を通じ横浜へ廻送する) |
1860(万延01)年11月 |
滝川播磨守具知が神奈川奉行に任命 |
1860(万延01)年11月 |
貞秀・豊国合作の「岩亀楼井異客之図」刊行 |
1860(万延01)年11月09日 |
幕府,庶民に外国人へ無作法なきよう注意 |
1860(万延01)年11月23日 |
米公使書記官ポートマンが外国奉行組頭宛に銀行設立勧告の書面送付 |
1860(万延01)年12月 |
青木町の石崎源六が神奈川奉行の武鑑を「黄金花」と題し刊行 |
1860(万延01)年12月 |
元総年寄苅部清兵衛が病気の為諸役辞任 |
1860(万延01)年12月 |
オランダ領事が外国奉行と会見(領事館の横浜移転を告知) |
1860(万延01)年12月 |
売込商総代が江戸で生糸貿易協定を糸問屋に申し込むが、交渉進展せず |
1860(万延01)年12月 |
下半期生糸輸出額5196ピクル(上半期の2倍) |
1860(万延01)年12月 |
幕府,横浜市街貸与地の地税徴収 |
1860(万延01)年12月 |
守衛として居留地廻り配備(俗称どんどこ廻り) |
1860(万延01)年12月 |
外国人居留地地税(年27$90セント,百坪) |
1861(文久01)年 |
英画家ワグマンが英公使オールコックに随行して横浜に来た |
1861(文久01)年 |
横浜輸出価額は前年の2.3 |
1861(文久01)年 |
横浜貿易,輸出入とも進展に関し楽観出来る |
1861(文久01)年 |
寄席芝居夜間興行物が賑わう(金花・吉村・清水・松本・長谷川亭) |
1861(文久01)年 |
幕府,三井御用所に洋銀購買所を設立(翌年廃業) |
1861(文久01)年 |
西海岸を埋立て馬場及宇摩見所を新設し馬術練習や競馬を開催 |
1861(文久01)年 |
英人E・サトウ(通訳・後に公使)来日(「幕末維新回想記」著者) |
1861(文久01)年 |
太田屋新田を埋立太田町南部を延長 |
1861(文久01)年 |
茂木惣兵衛が生糸売込業を開業した。 |
1861(文久01)年01月 |
ウエルガーが英仏字新聞に各国領事に燈台設立の公文を発する |
1861(文久01)年01月 |
生糸取引に関し江戸問屋・横浜売込商間に協定成立 |
1861(文久01)年01月 |
五雲亭貞秀の「横浜渡来亜墨利加商人旅行之図」刊行 |
1861(文久01)年01月 |
一川芳員の「横浜異人屋敷之図」・「横浜岩亀楼子供手踊之図」刊行 |
1861(文久01)年01月 |
芳虎の「清国南京人遊行横浜挙」刊行 |
1861(文久01)年01月 |
貿易生糸につき江戸問屋・横浜売込商間で協定成立 |
1861(文久01)年01月18日 |
幕府が外国御用出役を設置(在留外人警護の為) |
1861(文久01)年01月21日 |
英国・仏国公使が横浜から江戸に帰る |
1861(文久01)年01月23日 |
神奈川奉行の都筑峰暉が転任 |
1861(文久01)年01月26日 |
幕府、酒井右京亮忠糸(若年寄)に横浜貿易事務主管を命じる |
1861(文久01)年02月 |
幕府,山手の地所6千坪を領事館建設用地として各国に貸す |
1861(文久01)年02月 |
五雲亭貞秀の「横浜鈍宅之図」刊行 |
1861(文久01)年02月 |
神奈川奉行が支配定役を増員 |
1861(文久01)年03月 |
岳亭春信の「江戸久居計」刊行 |
1861(文久01)年03月 |
神港庵桃郷が「港益代古浜弁覧」(神奈川奉行所職員録)刊行 |
1861(文久01)年03月10日 |
シーボルト2世父と横浜に(後に体験を見聞記に述べる) |
1861(文久01)年03月24日 |
幕府、領事館建設用地埋立着手(蘭国のみ申し出、余りは官舎に) |
1861(文久01)年04月 |
東海道の各宿が連年の窮迫を道中奉行に救助を願出る |
1861(文久01)年04月 |
品川箱根間の人馬往来激しく、各宿は伝馬軽減を幕府に願出る |
1861(文久01)年04月24日 |
幕府,桑名・松山・新庄藩に外国領事館の警備を命ず |
1861(文久01)年06月 |
一寿斎一川芳員の「正写横浜異人図画」刊行 |
1861(文久01)年06月27日 |
幕府,外国奉行竹本図書頭正雄に神奈川奉行兼任を命ず |
1861(文久01)年07月 |
幕府,船勤番を設置し、各種同心から30名を充当 |
1861(文久01)年08月 |
「黄金花」が再版で「金川司鑑」と改題(職員録) |
1861(文久01)年08月 |
英商人の領事への答申書(外国商人は貿易の制限・圧力を感じてない) |
1861(文久01)年08月15日 |
幕府,神奈川奉行滝川具知を禁裏附とす |
1861(文久01)年08月16日 |
幕府,オールコックに国産品のロンドン博覧会出品を承諾 |
1861(文久01)年08月17日 |
蘭領事ゼネラールの『長崎―神奈川紀行』に横浜の文あり |
1861(文久01)年08月23日 |
外国奉行水野忠徳が蘭総領事と公使館の敷地に関し協議 |
1861(文久01)年08月23日 |
竹本正雄が蘭領事館訪問(軍艦需要米麦の無断直売禁止を要求) |
1861(文久01)年09月 |
幕府,堀割川の西端へ橋をかける |
1861(文久01)年09月 |
関門・番所,各1増設 |
1861(文久01)年09月 |
青木町の石崎源六の「神奈川横浜太平余楽」が刊行 |
1861(文久01)年09月 |
奉行所が定式請負方・普請係・家守を任命制に(外国家屋建設問題) |
1861(文久01)年09月 |
北仲通に下田座(芝居小屋)建設 |
1861(文久01)年09月07日 |
宿場名主・問屋・年寄(宿役人小前の不和や宿役経費につき願出) |
1861(文久01)年10月 |
広重の「横浜異人館之図」刊行 |
1861(文久01)年10月10日 |
幕府,神奈川と横浜の警護の任を姫路藩と松代藩に命ず |
1861(文久01)年10月12日 |
幕府,洋銀引換期間を6ケ月延長,各国公使に通告 |
1861(文久01)年11月07日 |
米リホームト派宣教師バラ夫妻神奈川に上陸し成仏寺到着 |
1861(文久01)年11月11日 |
幕府,禁裏附阿部越前守正外を神奈川奉行に任ず |
1861(文久01)年11月23日 |
英字新聞「ジャパン=ヘラルド」創刊(代表ハンサード) |
1861(文久01)年12月 |
ヒュースケン葬儀に際し英仏公使の要求で神奈川砲台で21発の弔砲) |
1862(文久02)年 |
輸出回復し江戸糸問屋の生糸横浜廻送額は前年の3倍に達す |
1862(文久02)年 |
番附絵「年代記珍説噺」刊行 |
1862(文久02)年 |
増田屋(増田嘉兵衛)が生糸売込業を開業 |
1862(文久02)年 |
幕府は生糸貿易の減少を恐れ蚕種紙を外国商館へ売込禁止 |
1862(文久02)年 |
伊勢熊が初めて入船町で牛肉店を開店 |
1862(文久02)年 |
「吾人の貿易は3倍に増加し吾人の輸出は凌駕」とニールが記録 |
1862(文久02)年 |
売込商小助は神奈川奉行の許可で両替商開始 |
1862(文久02)年 |
ヘボンが居留地39番にで病院新築、医療を開始 |
1862(文久02)年 |
吉田橋架設(吉田新田から太田屋新田西端) |
1862(文久02)年 |
玉蘭斎貞秀の「横浜渡来亜墨利加商人旅行之図」刊行 |
1862(文久02)年 |
亀屋(原善三郎)生糸売込業を開業 |
1862(文久02)年 |
原善三郎(亀屋)・増田嘉兵衛(増田屋)ら、生糸売込業開業 |
1862(文久02)年 |
横浜新田、埋立開始(現在の中華街付近) |
1862(文久02)年02月29日 |
東海道宿の賃銭が一年間割増になる |
1862(文久02)年03月 |
オランダ総領事館,洲弁天地先埋立地に竣工(移転披露最初の夜会) |
1862(文久02)年03月15日 |
幕府,小倉但馬守正義を神奈川奉行に任命する |
1862(文久02)年04月 |
米国人ショイヤーが英文紙「ジャパン・エクスプレス」創刊(不定期) |
1862(文久02)年04月 |
ワグマンが英文紙「ジャパン・ポンチ」創刊(不定期) |
1862(文久02)年04月 |
玉蘭斎貞秀の「横浜開港見聞誌」(案内記兼見聞記)刊行 |
1862(文久02)年04月02日 |
洲干弁天地先の埋立地で駆け乗り(日本最初の洋式競馬) |
1862(文久02)年04月12日 |
幕府招聘の米鉱山技師パンペリーとブレーキが横浜から函館に赴任 |
1862(文久02)年04月25日 |
幕府,新庄藩主戸沢正実の神奈川警衛を免じた |
1862(文久02)年05月 |
英語の手引書「和英商話」(日進堂・師岡屋伊兵衛)刊行 |
1862(文久02)年06月 |
上半期の横浜貿易は輸出169万ドル、輸入59万ドル |
1862(文久02)年06月06日 |
米商船が神奈川へ入港(漂民清五郎外10名乗船) |
1862(文久02)年06月28日 |
C・W・ブルックス社の郵便蒸気船がシスコから横浜に到着 |
1862(文久02)年07月 |
下岡蓮杖、弁天通で写真業開始 |
1862(文久02)年07月 |
桜田久之助(下岡蓮杖)が弁天通で写真業開業(日本最初の写真師) |
1862(文久02)年07月 |
本町5丁目宝田屋太郎右衛門は牡象1頭(見せ物)を飼う |
1862(文久02)年07月03日 |
神奈川奉行小倉正義が日光奉行に転じた |
1862(文久02)年07月28日 |
英領事が横浜の英商人に貿易の妨害制限を聞く回状を出す |
1862(文久02)年08月 |
生麦事件に関連し関内の無提灯の通行を禁止 |
1862(文久02)年08月 |
英代理公使ニールは下手人逮捕を要求(生麦事件) |
1862(文久02)年08月 |
閏8月−住吉町の伊せ熊、牛肉を煮て販売(牛鍋) |
1862(文久02)年08月 |
生麦事件 |
1862(文久02)年08月05日 |
神奈川奉行阿部正外が外国奉行に転じた |
1862(文久02)年08月21日 |
代理英公使ニールが貿易情況を英政府に報告 |
1862(文久02)年08月21日 |
島津久光一行が保土ケ谷本陣泊(川崎・保土ケ谷に番兵配置) |
1862(文久02)年08月21日 |
生麦事件発生(島津藩士による英国人4名殺傷事件) |
1862(文久02)年08月29日 |
ブルユインが保税倉庫の設置を要求 |
1862(文久02)年09月 |
錦港堂「港の華横浜奇談」刊行 |
1862(文久02)年09月 |
南草庵松柏が「珍事五ケ国横浜噺」刊行 |
1862(文久02)年09月 |
萩藩が横浜で蒸気船壬戌丸を購入 |
1862(文久02)年09月06日 |
幕府,外人保護のため避難所23ケ所設置(川崎・保土ケ谷間) |
1862(文久02)年09月23日 |
ニールは英政府に軍艦派遣を要求(幕府の反省・処分に不満) |
1862(文久02)年10月 |
幕府,在留官吏子弟のため英学校(一名英学所)設立 |
1862(文久02)年10月 |
書家三橋春沢,戸塚宿に移住し私塾を開設 |
1862(文久02)年10月 |
幕府,修文館を設け漢学を教授 |
1862(文久02)年10月15日 |
米公使ブリュインがアメリカの条約改正案を幕府に提出 |
1862(文久02)年10月17日 |
浅野伊賀守氏裕が神奈川奉行に、竹本正雅は大目付に転ず |
1862(文久02)年10月28日 |
ニールが幕府に警備厳重の要求(浪士居留地襲撃巷説) |
1862(文久02)年11月 |
神奈川奉行,生麦事件解決まで横浜在留外国人に外出歩行中止申出 |
1862(文久02)年11月 |
オランダ及び5ケ国の領事館全部が神奈川から横浜に移転 |
1862(文久02)年11月12日 |
高杉・久坂ら外国公使を金沢で襲撃すべく神奈川下田屋で会合 |
1862(文久02)年11月13日 |
萩藩土毛利定広が高杉らを召還し襲撃を中止 |
1862(文久02)年12月02日 |
生麦名主関口藤右衛門死亡(参考:「関口日記」) |
1862(文久02)年12月12日 |
居留地80番の聖心教会堂の献堂式が行れる(耶蘇寺) |
1862(文久02)年12月20日 |
神奈川奉行所,耶蘇寺で説教を聞いた邦人を国法違反で逮捕・留置 |
1862(文久02)年12月28日 |
神奈川奉行松平康直が外国奉行に転ず |
1863(文久03)年 |
英人W・H・スミスがクラブ(クラブホテルの前身)を設立 |
1863(文久03)年 |
英人カーチスが山手で西洋野菜栽培(玉葱・馬鈴薯・苺他) |
1863(文久03)年 |
三井呉服店閉鎖し、御用所を開設し官金用途を扱う |
1863(文久03)年 |
同年の英国船の横浜港輸出価額は895万ドル(生糸・綿花・茶他) |
1863(文久03)年 |
仏人ブーレーが横浜に製糸工場を建設(外国資本進出) |
1863(文久03)年 |
外国銀行が二行設立(中英印度銀行・印商業銀行) |
1863(文久03)年 |
ニール、国交の異常さを記録(政治関係・恐慌・暴力・貿易繁栄) |
1863(文久03)年 |
S.R.ブラウンの「コロキュアル・ジャパニーズ」発行 |
1863(文久03)年 |
芳藤が「横浜誉勝負附の図」刊行 |
1863(文久03)年 |
日本生糸が欧州市場に地位獲得の報道(”NewspaperExtract”) |
1863(文久03)年01月 |
上州商人、初めて屑物生糸を伊勢屋平作に売込 |
1863(文久03)年01月13日 |
生麦事件に対する英政府の第1次訓令到着 |
1863(文久03)年01月21日 |
平沼新田地主平沼九兵衛死亡 |
1863(文久03)年01月25日 |
幕府と朝廷は生麦事件の善後策で再度会議 |
1863(文久03)年01月25日 |
生麦事件英政府第2次訓令(賠償要求付記,英艦隊出動命令) |
1863(文久03)年01月26日 |
徳川慶喜が鷹司輔煕を通じ生麦事件に関する英の要求を奏上 |
1863(文久03)年02月 |
幕府,彦根藩井伊掃部頭直憲に横浜・川崎間防備を命令 |
1863(文久03)年02月01日 |
米公使ブリュイン、長崎・横浜・函館に保税倉庫設置再要求 |
1863(文久03)年02月04日 |
英海軍艦隊が横浜停泊(生麦事件処理の為) |
1863(文久03)年02月19日 |
英公使ニール、生麦事件の下手人引渡と償金10万ポンド要求 |
1863(文久03)年03月 |
芳豊画・魯文解「舶来大象の弁」刊行 |
1863(文久03)年03月 |
英・米大使打開策(各国の兵力,居留民の生命財産擁護) |
1863(文久03)年03月 |
神奈川奉行支配に定番役(頭取に配調役に窪田泉太郎任命) |
1863(文久03)年03月04日 |
老中松平豊前守正質はニールと交渉し、回答延期に努める |
1863(文久03)年03月04日 |
幕府,関八州大名に兵備の命令(日英戦争想定の処置) |
1863(文久03)年03月06日 |
幕府,諸大名及び布衣以上の総出動(防戦の術を講ずる命令) |
1863(文久03)年03月11日 |
スイス使節ウンベールが条約締結のため横浜に来訪 |
1863(文久03)年03月13日 |
幕府,江戸市内の老幼婦女病人等へ近郷避難の命令 |
1863(文久03)年03月16日 |
神奈川奉行が横浜市民に避難と指示 |
1863(文久03)年03月17日 |
神奈川奉行、横浜在勤の奉行支配一同に家族の立退き命ず |
1863(文久03)年03月25日 |
「日本交易新聞」創刊,翻訳者に柳河春三・箕作麟祥 |
1863(文久03)年04月01日 |
幕府,外国奉行竹本正明に神奈川奉行兼務を命ず |
1863(文久03)年04月02日 |
ニール,生麦事件に対する謝罪状と補金を厳重要求 |
1863(文久03)年04月04日 |
幕府,開港を拒絶することに決定,一般に布告 |
1863(文久03)年04月07日 |
幕府,譲夷期限切迫に付上下奮励すべしと命令 |
1863(文久03)年04月08日 |
幕府,老中竹本甲斐守正雅が英・米公使と会見 |
1863(文久03)年04月10日 |
山岡鉄太郎・清川八郎等が外人襲撃計画(15日襲撃決定) |
1863(文久03)年04月10日 |
朝廷,幕府に詔して外国人の滞留を禁止 |
1863(文久03)年04月12日 |
幕府,大久保雄之助忠恒が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年04月16日 |
幕府,将軍家茂が神奈川を巡視 |
1863(文久03)年04月21日 |
幕府,生麦事件の賠償金支払決定し、英領事ニールに通達する |
1863(文久03)年04月22日 |
幕府,在京諸大名に攘夷期限(5月10日)の決定を告知 |
1863(文久03)年04月30日 |
ニール、幕府は大名の圧迫で外人排斥を余儀なくしていると記録 |
1863(文久03)年05月 |
神奈川奉行が番所を設置し、衞士を置く |
1863(文久03)年05月 |
週間英字紙「ジャパン・コマーシャル・ニュース」創刊 |
1863(文久03)年05月01日 |
幕府,山口信濃守直毅が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年05月03日 |
償金支払延期をニールに通告(慶喜、攘夷の勅諚のため) |
1863(文久03)年05月03日 |
ニール、幕府の破約に怒り軍艦に戦備体制、各国も兵隊上陸 |
1863(文久03)年05月09日 |
小笠原長行が運上所の銀貨44万ドルを公使館でニールに交付 |
1863(文久03)年05月10日 |
長門藩が米国商船を田の浦沖で砲撃 |
1863(文久03)年05月12日 |
井上聞多・伊藤俊輔等(長州藩士)が横浜から英国出発 |
1863(文久03)年05月16日 |
竹本正明転任し、京極能登守高明が神奈川奉行就任 |
1863(文久03)年05月17日 |
米国神学博士デビット・トムソン到着,布教,西洋文明普及 |
1863(文久03)年06月 |
江戸糸問屋が幕府へ願書(生糸の濫出と買荒を述べる) |
1863(文久03)年06月 |
英国,横浜貿易の輸出82%,輸入77%を占める |
1863(文久03)年06月 |
翻訳紙「横浜新聞紙」発行 |
1863(文久03)年06月01日 |
長門藩が米軍艦ワイオミング号を下関で砲撃、逆に軍艦撃沈される |
1863(文久03)年06月05日 |
仏水師提督ジョレース、軍艦2雙で下関を砲撃し陸戦隊を上陸さす |
1863(文久03)年06月05日 |
翻訳新聞「日本新聞」創刊,翻訳柳河春三・内田弥太郎 |
1863(文久03)年06月10日 |
米国公使提唱で仏・英公使、蘭領事と会合、既得権擁護の覚書作成 |
1863(文久03)年06月15日 |
長井五右衞門昌言が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年06月22日 |
英提督クーパー,艦隊7隻をひきい横浜より鹿児島に向かう |
1863(文久03)年06月25日 |
山口直毅の辞任で、長井筑後守昌言が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年06月29日 |
幕府,姫路藩守酒井忠精の神奈川警備を免じる |
1863(文久03)年07月01日 |
幕府,生糸輸出抑制,横浜宛廻送糸1ケ月1500個に限定 |
1863(文久03)年07月02日 |
鹿児島湾で英艦隊と薩摩藩の間に戦火(薩英戦争) |
1863(文久03)年07月03日 |
英艦隊が鹿児島より横浜に退却 |
1863(文久03)年07月11日 |
英国横浜領事ウインチェスター,神奈川奉行に生糸輸出制限を抗議 |
1863(文久03)年07月21日 |
幕府,神奈川奉行並を配置(奉行の次席,支配組頭の上役) |
1863(文久03)年07月24日 |
神奈川奉行、ウインチェスターの抗議書を江戸町奉行に送達 |
1863(文久03)年07月28日 |
浅野氏祐が神奈川奉行を辞す |
1863(文久03)年08月 |
永田(現・南区)の医師服部宗純死亡 |
1863(文久03)年08月03日 |
戸塚清源院住職崙准、句碑を寺内に建立(遊女と町人の悲恋心中) |
1863(文久03)年08月07日 |
薩摩藩使者が横浜でニールと生麦事件で談判 |
1863(文久03)年08月13日 |
糟屋大和守義明が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年08月14日 |
神奈川奉行,長井昌言が先手に転じる |
1863(文久03)年08月16日 |
ニール,生糸払底を幕府老中に抗議,江戸問屋の体系的処置による |
1863(文久03)年08月22日 |
老中がニールに返書(生糸貿易は不日差支えなきに至る) |
1863(文久03)年09月 |
横浜鎖港談判で貿易商に恐慌をまきおこす |
1863(文久03)年09月02日 |
仏国カミウース、騎馬で戸塚に遊ぶ途中一浪士に斬殺 |
1863(文久03)年09月06日 |
聖心教会堂主任司祭ジラール宣教師、教会大鐘の聖別式をあげる |
1863(文久03)年09月08日 |
神奈川奉行京極高明が長崎奉行に転じる |
1863(文久03)年09月14日 |
幕府が横浜鎖港し貿易を長崎・函館に限定を定める |
1863(文久03)年09月14日 |
邦文紙「日本毎日新聞」創刊 |
1863(文久03)年09月14日 |
幕府横浜鎖港で蘭国領事と会見、領事16日に正式拒絶 |
1863(文久03)年09月24日 |
幕府,五品を直接神奈川に積出すことを禁止 |
1863(文久03)年09月28日 |
薩摩藩使者岩下佐次右衞門、ニールと和平談判を開始 |
1863(文久03)年09月28日 |
糟屋義明が新番頭、堀伊賀守利孟が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年09月30日 |
ヒコ蔵,米国領事館を辞し、商館を開く |
1863(文久03)年10月 |
尾高新五郎・渋沢喜作・渋沢栄一が居留地焼討を策す(未遂) |
1863(文久03)年10月04日 |
幕府,生糸貿易制限を撤回(地方荷主・売込商・外国の反対の故) |
1863(文久03)年10月11日 |
大久保紀伊守忠宣が神奈川奉行に就任 |
1863(文久03)年10月22日 |
神奈川奉行並合原義直が転任 |
1863(文久03)年10月25日 |
問屋一同、貿易荷物改方御免出願(生糸廻送中止・荷主直取引) |
1863(文久03)年10月26日 |
若年寄田沼・立花が仏公使と会見し鎖港を商議 |
1863(文久03)年10月26日 |
日刊英文紙「デイリー・ジャパン・ヘラルド」創刊 |
1863(文久03)年11月 |
老中は売込商の横浜出店・取扱品目増加不許可・出買禁止等命令 |
1863(文久03)年11月 |
ヘボン夫妻が英語塾を開校、気象観測も実施 |
1863(文久03)年11月 |
攘夷運動と幕府の輸出制限再強化によって、生糸貿易極度に不振 |
1863(文久03)年11月19日 |
米公使がリンカーン大統領の親書を将軍家茂に呈す |
1863(文久03)年11月20日 |
生糸貿易極度の不振(攘夷運動と輸出制限の為) |
1863(文久03)年11月26日 |
仏公使書記官が外国奉行に横浜鎖港談判使節加入斡旋願い |
1863(文久03)年11月26日 |
幕府,英国蒸気船ヤンツー号購入に軍艦奉行並勝義邦を派遣 |
1863(文久03)年11月27日 |
「日本交易新聞」が交易に状況が悪いと記録 |
1863(文久03)年12月 |
ウインチェスターが神奈川奉行に生糸貿易衰微に関し抗議 |
1863(文久03)年12月05日 |
「日本交易新聞」が交易衰微、富商立退き、商家明き家等記録 |
1863(文久03)年12月12日 |
沼田藩主、糸問屋荷物改中止の為荷主難渋状況の書を幕府に呈す |
1863(文久03)年12月16日 |
外国奉行小笠原がブリュインと輸入品税率低減につき商談 |
1863(文久03)年12月18日 |
勘定奉行竹内・松平が仏公使と輸入品税率低減を商談 |
1863(文久03)年12月19日 |
輸入益々少く輸出物品も寥寥と僅少(物価騰貴) |
1863(文久03)年12月20日 |
外国奉行柴田、ブリュインと輸入品税率低減に関する約書に調印 |
1863(文久03)年12月26日 |
綿花が生糸に次ぐ重要輸出品に(米国南北戦争の影響) |
1863(文久03)年12月29日 |
幕府列国の鎖港反対に対し欧州へ使節を派遣する |
1864(元冶01)年 |
清水屋が洗濯業開業(後に岡沢洗濯工場となる) |
1864(元冶01)年 |
芳虎が「横浜にて興業物之図」刊行 |
1864(元冶01)年 |
幕府の抑制政策で横浜港生糸輸出額の減少・綿花輸出の促進 |
1864(元冶01)年 |
神奈川で初めて洗礼を受けた者がある |
1864(元冶01)年 |
一川芳貞が「横浜明細全図」刊行 |
1864(元冶01)年 |
芳虎の「中天竺舶来之軽業武州横浜の地において興行の図」刊行 |
1864(元冶01)年 |
師岡屋伊兵衛が「英米通語」(木版)刊行 |
1864(元冶01)年 |
梅蝶楼国貞が「諸国繁栄遊興寿語六」刊行 |
1864(元冶01)年 |
外国銀行東洋銀行の創立 |
1864(元冶01)年 |
菊苑老人の「横浜奇譚」刊行 |
1864(元冶01)年 |
瓦版「東海道程土ケ谷宿まをとこころいやんれ」刊行 |
1864(元冶01)年 |
「横浜異人曲馬の図」刊行 |
1864(元冶01)年 |
両替商、肥前屋小助宅で洋銀相場取引を開始(支払代金一分銀) |
1864(元冶01)年 |
江戸木綿屋鹿島万平がウオルスポール商会に紡績機一式注文 |
1864(元冶01)年 |
ヘボン博士編纂の「真理易知」(伝道書)刊行 |
1864(元治01)年01月 |
弁天通に大黒屋(洋服店)開業 |
1864(元冶01)年01月 |
邦人最初の洋服屋開店(弁天通に大黒屋) |
1864(元冶01)年01月01日 |
ニールが生糸貿易改善を幕府に要求 |
1864(元冶01)年01月04日 |
上総藩主が生糸廻送を幕府に願う(領内生糸江戸滞貨の為) |
1864(元冶01)年01月06日 |
生糸廻送が再開(幕府の抑制政策依然変らず廻送量僅少) |
1864(元冶01)年01月24日 |
英国特派全権公使オールコック横浜着 |
1864(元冶01)年01月29日 |
幕府、東波止場(フランス波止場)建設 |
1864(元冶01)年02月 |
野毛橋(今の都橋)南詰吉田町提に番所が設置 |
1864(元冶01)年02月03日 |
蘭総領事がハンザ同盟都市商船の開港場利用承認を要求(幕府拒否) |
1864(元冶01)年02月07日 |
若年寄立花出雲守種恭が神奈川に赴任 |
1864(元冶01)年02月14日 |
老中井上正直がオールコックと会見し横浜鎖港の趣旨を弁明 |
1864(元冶01)年02月15日 |
横浜の鎖港、長崎・函館の開港が勅許になる |
1864(元冶01)年02月24日 |
横浜の貿易商伊勢屋平兵衛が大坂で暗殺(道頓堀大和橋で梟首) |
1864(元冶01)年03月 |
ゴーブルが聖書の翻訳に着手(5年後に「摩太福音書」刊行) |
1864(元冶01)年03月 |
横浜外字新聞紙が横浜港の商況と幕府の排外政策を論難 |
1864(元冶01)年03月 |
貞秀の「横浜売物図絵(唐物屋の図)」刊行 |
1864(元冶01)年03月 |
1〜3月の横浜港操綿輸出額は約4万5千ピクル |
1864(元治01)年03月 |
外人の曲馬団・軽業の興行 |
1864(元冶01)年03月16日 |
神奈川奉行並駒井相模守信興が奉行に昇格 |
1864(元冶01)年03月16日 |
鎖港使節の池田修理一行がパリに到着 |
1864(元冶01)年03月22日 |
新任仏公使のロッシュが横浜着 |
1864(元冶01)年04月 |
貿易抑圧に対抗し密貿易や大藩と結託庇護下に立つもの続出 |
1864(元冶01)年04月02日 |
池田・仏外相ルイの横浜鎖港談判開始(5月17日迄) |
1864(元冶01)年04月07日 |
幕府,古河藩主土井大炊頭利則の神奈川警守を免職 |
1864(元冶01)年04月10日 |
幕府,福島藩主板倉勝顕に日光山警守を命令 |
1864(元冶01)年04月11日 |
オールコック,英国兵駐屯の為横浜に兵舎建設用地借入を申入れる |
1864(元冶01)年04月23日 |
英・仏・印国兵が横浜上陸し山手で駐屯(1500名) |
1864(元冶01)年04月25日 |
各国公使が下関通航・横浜鎖港に関する覚書作成し幕府に同文通牒発す |
1864(元冶01)年04月27日 |
朝議,横浜一港の閉鎖を決す |
1864(元冶01)年05月 |
永田の医師服部宗純の墓碑が建立 |
1864(元冶01)年05月11日 |
仏国狙撃中隊がタンクレード号に同乗し横浜に入港 |
1864(元冶01)年05月18日 |
幕府,オールコックの要望を入れ英国兵屯所の建築貸与を承諾 |
1864(元冶01)年05月24日 |
幕府,軍艦奉行勝義邦を神奈川に派遣,砲台構造の事業を質問さす |
1864(元冶01)年05月25日 |
幕府,神奈川奉行堀を軍艦奉行、別手組取締役白石を神奈川奉行並 |
1864(元冶01)年06月 |
川和瑞雲寺で雲龍以下2、3百名の力士と地元青年間で大衝突 |
1864(元冶01)年06月 |
生糸の平年生産高は開港時の6〜10割増加(「糸問屋上申書」) |
1864(元冶01)年06月01日 |
幕府,生糸・茶等の輸出向商品の生産化に対する禁令を発す |
1864(元冶01)年06月10日 |
家茂帰府の際に保土ヶ谷で組み立てた人馬高16日間の合計莫大 |
1864(元冶01)年06月12日 |
神奈川奉行が米神奈川領事に米商人暴行邦人処罰要求で協議を求む |
1864(元冶01)年06月17日 |
「横浜新聞」が生糸1俵の輸出もなしと記録 |
1864(元冶01)年06月19日 |
4国公使が横浜で会見(下関砲撃に関する協同覚書を協定) |
1864(元冶01)年06月26日 |
幕府,神奈川奉行支配組頭福田作太郎を鉄砲製造奉行に任ず |
1864(元冶01)年06月26日 |
幕府,神奈川奉行大久保忠宣を大目付に転じる |
1864(元冶01)年06月29日 |
外国奉行ら米公使ブリュインに書(暴行事件:露国皇帝の仲裁を求む) |
1864(元冶01)年07月 |
伊勢屋幸吉が「横浜みやげ」刊行 |
1864(元冶01)年07月 |
幕府、貿易制限の最強化 |
1864(元冶01)年07月19日 |
4国公使が会見し連合艦隊の横浜出港延期を決議 |
1864(元冶01)年07月21日 |
老中,生糸・操綿の横浜廻送に厳重な制限を設定し町奉行に命じる |
1864(元冶01)年07月24日 |
糸問屋が幕府に請書(横浜表から注文以外生糸廻送休止) |
1864(元冶01)年08月 |
生糸売込業者が荷受所設置し仲間議定書制定(組合の始め) |
1864(元冶01)年08月 |
生糸売込商、仲間議定書制定(生糸組合のはじめ) |
1864(元冶01)年08月05日 |
幕府,駒井を外国奉行に、書院番頭と神奈川奉行並を神奈川奉行に任命 |
1864(元冶01)年08月10日 |
長州藩士井原・杉・伊藤がオールコックと会見(下関償金の件) |
1864(元冶01)年08月17日 |
幕府,生糸一日25箇宛横浜に廻送を町奉行に命ず |
1864(元冶01)年08月18日 |
4国連合は貿易制限政策の撤廃を狙って外国奉行と会談開始 |
1864(元冶01)年08月25日 |
幕府,糸問屋に生糸一日50箇宛横浜に廻送を命ず |
1864(元冶01)年08月29日 |
幕府,開港・攘夷の両面政策を廃し横浜鎖港の要求は撤回と述べる |
1864(元冶01)年09月 |
勘定奉行及び同吟味役が蚕種紙の生産・販売の統制計画を上書 |
1864(元冶01)年09月 |
英公使オールコックと米公使ブリュインが居留地拡張の要求を相談 |
1864(元冶01)年09月 |
山手町に屠牛場設置(肉食開始) |
1864(元冶01)年09月01日 |
幕府,オールコックに洋銀引換の延期を通達 |
1864(元冶01)年09月01日 |
オールコックが幕府に抗議(「生糸貿易制限撤回の誓言」違反) |
1864(元冶01)年09月05日 |
幕府,江戸の糸問屋が横浜廻送生糸買取中止(制限政策撤廃) |
1864(元冶01)年09月08日 |
オールコック幕府に抗議(江戸経済封鎖を明示して威嚇) |
1864(元冶01)年09月10日 |
早川庄次郎久文が神奈川奉行並に就任 |
1864(元冶01)年09月22日 |
老中酒井・竹本,英米仏蘭4国代表と下関取極書に調印 |
1864(元冶01)年09月25日 |
制限政策撤廃で生糸貿易回復する |
1864(元冶01)年10月18日 |
外国奉行が仏公使に在留外人の村民傷害事件で遊猟の禁止を求めた |
1864(元冶01)年10月19日 |
幕府,神奈川奉行支配組頭脇屋に長州藩士と通信の罪で自刃を命令 |
1864(元冶01)年10月22日 |
英士官ボルドウィン・バードが江ノ島見物帰途に浪士2名に斬殺 |
1864(元冶01)年11月 |
野毛山下の海岸5間,埋立地,石炭倉庫6棟が竣工 |
1864(元冶01)年11月07日 |
4国公使,横浜・長崎・函館3港外人居留地分配規則を協定提出 |
1864(元冶01)年11月10日 |
幕府,海軍製鉄所の設立計画(仏公使ロッシュに委託) |
1864(元冶01)年11月14日 |
幕府,ロッシュに仏公使館敷地の貸与を承諾 |
1864(元冶01)年11月20日 |
幕府,外人居留地分配規則を急には決定出来ないと告げる |
1864(元冶01)年11月20日 |
幕府,横浜仏兵舎の地料を徴集させる |
1864(元冶01)年11月21日 |
居留地拡張に関し日本側と英・仏・米・蘭間に横浜居留地覚書調印 |
1864(元冶01)年11月24日 |
神奈川奉行土岐頼徳が転任 |
1864(元冶01)年11月29日 |
英国士官斬殺の首謀者,清水清次戸部暗闇坂処刑,吉田橋に曝首 |
1864(元冶01)年11月30日 |
外国奉行,未締結国人で横浜に在留商業に従事する者の処置を建議 |
1864(元冶01)年12月 |
江戸町奉行・同吟味役が老中に糸会所の設立と生糸配給統制上書 |
1864(元冶01)年12月 |
米人ウエッドル、横浜で医者を開業 |
1864(元冶01)年12月01日 |
幕府,作事奉行岡部駿河守長常を神奈川奉行に任命 |
1864(元冶01)年12月14日 |
長州征伐の大通行,28ケ村に人馬相対が命令 |
1864(元冶01)年12月18日 |
岡部長常が金遺奉行に転任 |
1865(慶応01)年 |
同年貿易飛躍的発展(制限解除・蚕卵紙・繭輸出品・綿花顛落) |
1865(慶応01)年 |
長崎英領事の報告(茶・蝋・繰綿・砂糖の生産増加) |
1865(慶応01)年 |
瓦版,「横浜開港見聞録」刊行 |
1865(慶応01)年 |
幕府,貿易商人歩合金余剰に関し利殖法設定(町内近村に貸付) |
1865(慶応01)年 |
瓦版,「横浜征伐御名所」刊行 |
1865(慶応01)年 |
横浜で英国調練の稽古開始 |
1865(慶応01)年 |
神奈川奉行が吉田南家の屋敷内畑地を外人向野菜の試作地に指定 |
1865(慶応01)年 |
同年横浜輸出総額1千746万$輸入総額1千315万$ |
1865(慶応01)年 |
仏公使館が弁天境内に領事館が運上所内に建築 |
1865(慶応01)年 |
太田村,神奈川奉行の預所となる |
1865(慶応01)年 |
瓦版,「横浜異人館之図」刊行 |
1865(慶応01)年01月 |
外人遊歩新道が根岸村に設置 |
1865(慶応01)年01月01日 |
南草庵が「みよさきさいけんき」刊行 |
1865(慶応01)年01月29日 |
幕府,横浜製鉄所を起工(仏海軍士官ドロートル首長−工場長) |
1865(慶応01)年03月 |
原田由兵衛が塾を越後長岡に開校 |
1865(慶応01)年03月13日 |
ジョセフ・ヒコが「海外新聞」創刊(本邦新聞元祖) |
1865(慶応01)年03月28日 |
横浜町総年寄苅部清兵衛悦甫(72)死亡 |
1865(慶応01)年04月 |
外国及び神奈川奉行が老中に上申(蚕卵紙の輸出取扱を自由放置) |
1865(慶応01)年05月 |
商人集会所設立(本町3丁目) |
1865(慶応01)年05月 |
幕府,繭・蚕卵紙の輸出取締の為横浜商人に特権を付与 |
1865(慶応01)年05月07日 |
幕府の長州征伐の為千余人が保土ヶ谷に宿舎をとる |
1865(慶応01)年05月10日 |
屠牛場規則制定(北方村に屠牛場設置) |
1865(慶応01)年05月25日 |
神奈川奉行並早川久文が神奈川奉行に昇任 |
1865(慶応01)年06月 |
神奈川奉行が蚕卵紙売込の許可指令(公式種紙輸出の開始) |
1865(慶応01)年07月 |
仏人のA・ウートレーがフランス語学講習所建設(元浜4) |
1865(慶応01)年07月 |
翻訳邦字紙「日本新聞外編」創刊 |
1865(慶応01)年07月08日 |
神奈川奉行白石鳥岡転任、小笠原筑後守長常奉行に転任 |
1865(慶応01)年07月19日 |
邦字紙「日本新聞」が創刊(後の「ジャパン・タイムズ」) |
1865(慶応01)年08月 |
洲干弁天社地に商家建設(町並出来、弁天通と呼ばれる) |
1865(慶応01)年08月 |
横浜製鉄所完成 |
1865(慶応01)年08月24日 |
横浜製鉄所建築竣工 |
1865(慶応01)年09月 |
山手遊歩道・休憩所完成(ちゃぶ発生の条件) |
1865(慶応01)年09月 |
幕府,洲干弁天地に独領事館を建設し貸与 |
1865(慶応01)年09月 |
横浜製鉄所専任官に栗本清兵衛任命(製鉄所開業) |
1865(慶応01)年09月 |
週間英文紙「ジャパン・タイムズ」創刊 |
1866(慶応02)年 |
聖心教会派宣教師プチジェアン師が日本の教皇代理に任命 |
1866(慶応02)年 |
同年生糸輸出額激減(春の桑の霜害・蚕卵紙の多量輸出が因) |
1866(慶応02)年 |
幕府,奉行所役人勧告,歩合金の積立,売込商・取引商,翌年実施 |
1866(慶応02)年 |
ワーグマンが週刊「ファー・イースト」創刊 |
1866(慶応02)年 |
横浜−神奈川宿間の運搬賃制定(荷物一駄124文) |
1866(慶応02)年 |
聖心教会派の宣教師が仏和学校開校(洲干町(北仲通)) |
1866(慶応02)年 |
広重の「横浜商館天主堂図」刊行 |
1866(慶応02)年 |
保土ケ谷の俳人安達清墨庵の碑が香象院に建立 |
1866(慶応02)年01月04日 |
幕府,野毛下林光寺附近に文学所修文館建設(学頭教授菊地俊助) |
1866(慶応02)年01月04日 |
幕府,仏海軍第二等士官バリーより海軍学術を伝授される |
1866(慶応02)年01月05日 |
幕府,生糸蚕卵紙改印令命令(国産統制の実現を企図) |
1866(慶応02)年02月 |
子安の浦島寺に武蔵の太田唯助橘正世の歌碑 |
1866(慶応02)年02月 |
内海兵吉が北仲通で富田屋開業(パン。ビスケットを外国人に販売) |
1866(慶応02)年02月29日 |
幕府,庶民に開港地への移住と交易奨励、外国船の自由購入を許可 |
1866(慶応02)年03月 |
幕府,横須賀製鉄所を起工 |
1866(慶応02)年04月08日 |
幕府,庶民に海外修学・貿易の許可(免許・印章の交付) |
1866(慶応02)年05月 |
改印令同月より実施、江戸問屋の横浜行生糸改の廃止 |
1866(慶応02)年05月13日 |
老中水野忠精が各公使・領事と改税約書に調印 |
1866(慶応02)年05月16日 |
幕府,借庫規則制定(輸入貨物の預かり) |
1866(慶応02)年05月21日 |
幕府、苅部清兵衛を横浜町留役組頭に任命・水野若狭守良之,神奈川奉行 |
1866(慶応02)年05月21日 |
幕府、水野若狭守良之が神奈川奉行に就任 |
1866(慶応02)年05月22日 |
英公使パークスは生糸課税に対し幕府に抗議 |
1866(慶応02)年05月28日 |
太田新田の開発者太田準左衛門死亡 |
1866(慶応02)年06月 |
根岸競馬場の開設・落成(外人経営の横浜競馬倶楽部) |
1866(慶応02)年06月 |
幕府の別手・小筒組が出張し関門と番所を定番役に代り警衛 |
1866(慶応02)年06月18日 |
米公使館書記官ポートマンが生糸課税は条約侵害と幕府に抗議 |
1866(慶応02)年06月20日 |
神奈川奉行小笠原筑後守長常が辞任(評定所惣年寄を兼務任命) |
1866(慶応02)年07月 |
幕府,神奈川奉行早川能登守が江戸へ帰還し水野若狭守が在勤 |
1866(慶応02)年07月 |
ヘボンが「和英語林集成」(和英対訳辞典)刊行 |
1866(慶応02)年08月 |
仏水夫2名が港崎町で乱暴の結果、1名傷害致死 |
1866(慶応02)年08月 |
前田留吉が太田町8丁目に牧場開設し牛乳搾取業を開始 |
1866(慶応02)年08月 |
松山藩が幕府に神奈川砲台を献上し、代替に軍艦受領 |
1866(慶応02)年08月07日 |
函館の各領事館が改印制度は自由貿易の条約違反と非難 |
1866(慶応02)年09月 |
根岸に馬見所(近代的競馬場)開設 |
1866(慶応02)年09月 |
荏原・橘樹代表者が青年に兵式訓練の要請(今川代官宛) |
1866(慶応02)年09月27日 |
幕府,太田陣屋内に仏式の騎兵・歩兵の伝習所開設(三兵傳習所) |
1866(慶応02)年10月 |
居留地請負師増田万吉が「武州横浜湊焼場方角図」刊行 |
1866(慶応02)年10月 |
豚屋火事、関内の大半を焼失 |
1866(慶応02)年10月20日 |
末広町豚肉営業鉄五郎宅から出火し居留地焼失(豚屋火事) |
1866(慶応02)年11月 |
幕府,本町一丁目から西波止場までの海岸埋立工事に着手 |
1866(慶応02)年11月 |
幕府,海岸通2に仏語学伝習所開校(担任牧師仏天主教会メルメ) |
1866(慶応02)年11月 |
佐野茂(料亭)が市中塵芥掃除請負 |
1866(慶応02)年11月23日 |
幕府/各国領事と居留地改造に関する約定12ケ条を取決 |
1866(慶応02)年12月 |
神奈川奉行が太田三丁目佐野屋茂左衛門に市中塵芥掃除請負業を下命 |
1866(慶応02)年12月25日 |
ヒコ蔵が長崎の本間盛享の貿易事業の管理を委嘱され移住する |
1866(慶応02)年12月29日 |
横浜製鉄所奉行に一色摂津守と古賀謹一が就任 |
1867(慶応03)年 |
横浜港貿易状態(生糸輸出額激減し食料品・武器の輸入激増) |
1867(慶応03)年 |
英国人スカートが「倫教新聞紙」創刊 |
1867(慶応03)年 |
英領事館訳官ラウダーが「日英会話編」刊行 |
1867(慶応03)年01月 |
横浜港停泊船は外国商船21隻、軍艦9隻 |
1867(慶応03)年01月 |
英領事付宣教師ベーリーが「万国新聞」創刊(邦字紙2号) |
1867(慶応03)年01月 |
生糸売行き減少(日本産絹高価の為)(「万国新聞」初集記事) |
1867(慶応03)年01月22日 |
英商船エヤンエール号が日本漂流人35名を神奈川奉行へ引渡 |
1867(慶応03)年02月 |
「万国新聞」第2集に英商の日本産生糸不用の見解記事 |
1867(慶応03)年02月01日 |
米国人ウエストウッドが江戸・横浜間鉄道敷設認可を幕府に出願 |
1867(慶応03)年03月 |
幕府,横浜役所及び西運上所新築・東西両波止場間埋立 |
1867(慶応03)年03月 |
本町・吉田橋・馬車通行路の竣功(秋にゴウブ馬車会社開業) |
1867(慶応03)年03月 |
西村勝三(伊勢屋商店)が銃砲・弾薬販売開業 |
1867(慶応03)年03月 |
入舟町,国産改所の設置 |
1867(慶応03)年03月 |
『万国新聞』に元町中川嘉兵衛が営業広告(引札)掲載 |
1867(慶応03)年03月 |
馬車道竣工 |
1867(慶応03)年03月26日 |
幕府,オランダに造船依頼の軍艦開陽丸が竣工 |
1867(慶応03)年04月 |
徳川慶喜が視察(太田陣屋・練兵・横浜製鉄所) |
1867(慶応03)年04月 |
米国人ピースが横浜市街に瓦斯灯設置を計画 |
1867(慶応03)年04月09日 |
洲干弁財天で開港以来初の祭礼挙行 |
1867(慶応03)年04月09日 |
神奈川の医者佐藤??死亡 |
1867(慶応03)年05月 |
英領事館、国際結婚に関する照会、神奈川奉行所で詮議の上許可 |
1867(慶応03)年05月 |
「万国新聞」第4集が日本生糸を粗悪品なりとの記事掲載 |
1867(慶応03)年05月13日 |
神奈川奉行,海関の取扱と横浜港の荷物の陸上の簡略化規則制定 |
1867(慶応03)年05月29日 |
港崎町代地変換(吉田橋南の吉田新田沼地1万2千余坪埋立成功) |
1867(慶応03)年06月 |
ヘボンが英和対訳辞書販売 |
1867(慶応03)年06月 |
野毛町役人が野毛橋脇埋立・貨物運送業の許可 |
1867(慶応03)年06月 |
外国人が生糸の値段高で種紙多量に購入(「万国新聞」第5集) |
1867(慶応03)年06月 |
太田陣屋の三兵伝習所が江戸越中島・駒場に移転 |
1867(慶応03)年06月 |
本町53番洋服屋ラダージの仕立値は上着14ー24$ |
1867(慶応03)年06月19日 |
米国太平洋飛脚船社の蒸気船のニューヨークから入港 |
1867(慶応03)年07月 |
幕府,関門規則及び通行改正 |
1867(慶応03)年07月13日 |
神奈川名主が廻状(家内及び近辺の清潔を厳すべし) |
1867(慶応03)年07月20日 |
香港上海銀行支店が居留地で開業 |
1867(慶応03)年08月 |
「万国新聞」第6集日本生糸の価格、世界相場より高価と記録 |
1867(慶応03)年08月14日 |
幕府,依田伊勢守盛克を神奈川奉行に任命 |
1867(慶応03)年08月27日 |
米公使バアルケンバーグが幕府に勧告(機械で絹布を織る) |
1867(慶応03)年09月 |
幕府,諸国の農兵に鉄砲・附属品与える |
1867(慶応03)年09月 |
神奈川運上所落成(木造2階建石壁造り) |
1867(慶応03)年09月 |
幕府,神奈川奉行の石高を廃止、役金年3千両に改正 |
1867(慶応03)年09月 |
幕府が山手に英公使館建築 |
1867(慶応03)年09月 |
英医師ニュートン・英公使,幕府に検黴所設立の意見 |
1867(慶応03)年09月 |
廻漕用逹汽船が横浜・品川、横浜・大坂間を往復(本邦郵船最初) |
1867(慶応03)年09月 |
回漕汽船、横浜・品川・大阪間運航 |
1867(慶応03)年09月15日 |
三代目沢村田之助にヘボン博士が外科治療(義脚つける) |
1867(慶応03)年09月22日 |
戸塚の矢部町,火災発生,善了寺以東,半分焼失 |
1867(慶応03)年09月22日 |
早川能登守久文,神奈川奉行免ぜられる |
1867(慶応03)年10月 |
居留外人増加(居留地の拡張費用不足で英公使等幕府に談判) |
1867(慶応03)年10月 |
関門番所,警備隊に組織替え(街道用出役・役所附下番役) |
1867(慶応03)年10月 |
居留地10番地,ブラック英文紙「ジャパン・ガゼット」創刊 |
1867(慶応03)年10月 |
幕府,江戸・横浜通用の銀座金武札発行(貿易の融通用) |
1867(慶応03)年10月 |
居留地取締規則の協定(外国奉行・神奈川奉行・各国領事会議) |
1867(慶応03)年10月14日 |
江戸小網町回漕屋松坂屋,米国人ヴェンリードから小蒸気船購入 |
1867(慶応03)年11月 |
幕府,各村の取締役,農兵取締役員数の届出 |
1867(慶応03)年11月 |
幕府,目付原清穆を横浜派遣,生糸密輸送を検断 |
1867(慶応03)年11月 |
夏から各地に神仏の札がまかれ「ええじゃないか」ブーム |
1867(慶応03)年11月01日 |
江戸・横浜間に引船荷物運送船及外国人乗合船設置規定制定 |
1867(慶応03)年11月23日 |
幕府,外国人居留地取締規則を通達 |
1867(慶応03)年12月 |
山手の居留地が競売方式で外人に貸与 |
1867(慶応03)年12月23日 |
幕府,米公使に神戸−横浜間の鉄道免許書・規則書を交付 |
1868(明治01)年 |
秋元己之助が清涼飲料水製造開始(外国人から伝習) |
1868(明治01)年 |
在浜華僑(外国商社の使用人)は山下町20ー160番地に雑居居住 |
1868(明治01)年 |
茂木惣兵衛が野沢屋呉服店を開業 |
1868(明治01)年 |
清水東谷・内田九一が馬車道で写真業を開業 |
1868(明治01)年 |
株仲間組織廃止(後に同業者組合として復活) |
1868(明治01)年 |
在日華僑の会議所設立(中華会館の前身・対官衛交渉機関の役割) |
1868(明治01)年 |
全国耕地の1,3が小作地、2,3が自作地 |
1868(明治01)年 |
東京日本橋瑞穂屋卯三郎が英国より西洋花火を輸入(2年開業) |
1868(明治01)年 |
英商人T・グラバが大浦海岸通で鉄道を敷設(機関車客車ひく) |
1868(明治01)年 |
洋銀相場改所(両替商集会所も併置設立・南仲通4) |
1868(明治01)年 |
神奈川府布逹、淫売取締の禁令 |
1868(明治01)年 |
洋銀相場会所設立 |
1868(明治01)年 |
野沢屋呉服店(茂木惣兵衛)開店 |
1868(明治01)年01月06日 |
都築・橘樹両郡総代(飯田助太夫・又右衛門)農兵取立方の上申 |
1868(明治01)年01月07日 |
神奈川宿大火(良泉寺・長延寺・金蔵院境内の熊野神社焼失) |
1868(明治01)年01月25日 |
各国公使は各国人に局外中立を布告(仏公使発議) |
1868(明治01)年03月 |
一川芳員の「横浜明細全図」が師岡屋伊兵衛により改版 |
1868(明治01)年03月 |
重政が「フランス名医足病療治の図」刊行 |
1868(明治01)年03月 |
駒形町鈴村要蔵「開港横浜纏鑑」を編纂 |
1868(明治01)年03月10日 |
幕府,督府参謀木梨精一郎が外国公使と港内の警備で相談 |
1868(明治01)年03月13日 |
官軍先鋒総督橋本梁が米倉昌言に横浜取締命令 |
1868(明治01)年03月19日 |
王政復古(新政府の統治・横浜裁判所の設置) |
1868(明治01)年04月 |
伊東玄朴が江戸より弁天通に移る |
1868(明治01)年04月 |
ヘボンが沢村田之助に米国製義足を取りつける |
1868(明治01)年04月 |
梅毒病院が官費建設(ニュートンを名誉院長日本人医師数名) |
1868(明治01)年04月 |
「神奈川府日誌」刊行 |
1868(明治01)年04月 |
ヒコ蔵(ジョゼフ)が「海陸新聞」創刊 |
1868(明治01)年04月01日 |
官軍先鋒総督が米倉昌言に横浜裁判所勤務命令 |
1868(明治01)年04月02日 |
横浜裁判所管轄地(横浜10里四方・外国人遊歩区域) |
1868(明治01)年04月11日 |
米国領事館員ヴェンリードが「横浜新報もしほ草」(新聞)創刊 |
1868(明治01)年04月16日 |
官軍東久世及び鍋島が野毛の修文館に入る |
1868(明治01)年04月17日 |
横浜病院英人医ウイリスが弁天内語学所で負傷官軍兵看護 |
1868(明治01)年04月18日 |
伊藤嘉七郎が横浜病院総取締に就任 |
1868(明治01)年04月19日 |
横浜の幕府歩兵約140名が逃亡 |
1868(明治01)年04月20日 |
神奈川奉行所水野若狭守・依田伊勢守,横浜を総督に引き渡す |
1868(明治01)年04月22日 |
神奈川裁判所が戸部裁判所・横浜裁判所と改称 |
1868(明治01)年04月24日 |
東久世・鍋島が神奈川・生麦を巡視し高札書き改めた |
1868(明治01)年04月26日 |
鍋島副総督が各国公使の要請で帯剣者の市中徘徊を禁止 |
1868(明治01)年05月 |
沢村田之助がヘボンへの礼興行(下田座で「奥州白石噺」) |
1868(明治01)年05月 |
東久世総督が豪商に軍資金15万円要求(条件付10万円献金) |
1868(明治01)年05月06日 |
阿部摂津守が神奈川・川崎間の関門を引き払う |
1868(明治01)年05月18日 |
東久世総督が各国公使に開港延期と外国人赴任の禁止伝達 |
1868(明治01)年05月23日 |
横浜警衛が肥後藩兵4百名と交代(5月23〜6月2日) |
1868(明治01)年06月 |
薬湯の男女混浴禁止 |
1868(明治01)年06月 |
政府は生糸と蚕卵紙の密輸出を禁止、関東諸県に令逹 |
1868(明治01)年06月 |
戸部裁判所が神奈川府裁判所内に移庁 |
1868(明治01)年06月 |
総年寄と名主を公選(総年寄は苅部清兵衛,名主は小野兵助) |
1868(明治01)年06月 |
横浜・横須賀に徒刑所設置 |
1868(明治01)年06月 |
英人ブラントン燈台建設技師として来日 |
1868(明治01)年06月08日 |
政府,外国人の申請許可(洋銀(メキシコ銀貨)を一分銀に改鋳) |
1868(明治01)年06月17日 |
神奈川府裁判所、東久世知事・鍋島府事(外国官副知事兼任)就任 |
1868(明治01)年06月20日 |
松村忠四郎が武蔵国知県事(奉行職)に就任 |
1868(明治01)年06月20日 |
横須賀製鉄所所属の横須賀丸が横浜―横須賀間の往復就航開始 |
1868(明治01)年07月 |
外国商船と奥羽越地方(幕軍)の貿易が禁止 |
1868(明治01)年07月19日 |
米穀輸出禁止(国内食物払底の為) |
1868(明治01)年08月 |
政府が歩合掛を設置(金指六左衛門等3名に軍資金調達さす) |
1868(明治01)年08月 |
海岸通元造船所に鈴木保兵衛等3名が弘明商会(貿易)設立 |
1868(明治01)年08月 |
北仲通に燈台掛の木工場起工 |
1868(明治01)年08月02日 |
横浜警衛の肥後藩兵が阿波藩兵と交替 |
1868(明治01)年08月07日 |
洲干弁天境内で壬生狂言の興行 |
1868(明治01)年08月12日 |
古事一平が知県事に |
1868(明治01)年08月23日 |
藩兵を廃し、府兵を置く |
1868(明治01)年08月25日 |
神奈川府の管轄を神奈川四方十里の地と制定 |
1868(明治01)年08月29日 |
神奈川府裁判所備付の小蒸気船稲川丸が京浜間往復運行 |
1868(明治01)年09月 |
下岡蓮杖、辨天通で写真撮影業開業 |
1868(明治01)年09月 |
政府,蚕卵紙生糸改所を各開港場に設立 |
1868(明治01)年09月 |
政府,堺町の官地を入札の上、貸与 |
1868(明治01)年09月 |
「中外新聞」(商業新聞)創刊 |
1868(明治01)年09月 |
伊豆屋宗然が伊勢山に時の鐘を設ける |
1868(明治01)年09月08日 |
東久世府知事が外国官副知事兼任 |
1868(明治01)年09月21日 |
神奈川県設置(官職−判官事・知県事・権判官事・判県事設置) |
1868(明治01)年09月28日 |
スペインと通商条約締結 |
1868(明治01)年10月 |
弓師半次郎、土弓を案出し吉田新田で開業 |
1868(明治01)年10月 |
燈台掛の木工場で本牧燈台船戒礁丸の建造着手 |
1868(明治01)年10月11日 |
天皇が東京入城(戸塚・保土ケ谷・神奈川宿の本陣が行在所に) |
1868(明治01)年10月15日 |
漢詩人平塚真宝(号梅花)が江戸から石川に移住 |
1868(明治01)年10月23日 |
寺島宗則が蘭人スネルに詰問(賊軍に兵器販売,スネル服せず) |
1868(明治01)年11月19日 |
新潟港開港 |
1868(明治01)年12月 |
三井八郎右衛門が貿易商社設立(三井物産前身) |
1868(明治01)年12月 |
政府,公議所を設置 |
1868(明治01)年12月03日 |
輔相岩倉具視が各国公使と会見し局外中立を解く |
1868(明治01)年12月06日 |
神奈川県が金札を発行(翌年12月23日廃止) |
1868(明治01)年12月15日 |
岩倉卿が中立解除、早急の布告求める |
1869(明治02)年 |
諸寺院の下馬下乗の高札撤去 |
1869(明治02)年 |
洋服業は100名内外(他に清国人職工30名) |
1869(明治02)年 |
本木昌造が印刷機械製造(長崎人で鉛活字の発明者) |
1869(明治02)年 |
琴曲家原千代春,元町代官坂相原千賀恵の門人となる |
1869(明治02)年 |
ヘボン博士、月・土・日に患者の施療を開始 |
1869(明治02)年 |
修文館編纂の「英語読本」刊行 |
1869(明治02)年 |
英人W・H・スミス、クラブを改称(ホテルに組織替) |
1869(明治02)年01月 |
川名幸左衛門外7名連署の東京・横浜間乗合馬車営業出願・許可 |
1869(明治02)年01月 |
幕府設置の警護隊廃止(県兵が置かれる) |
1869(明治02)年01月 |
引取商からも歩合金の徴収開始 |
1869(明治02)年01月 |
引取商人が商人集会所を設置 |
1869(明治02)年01月 |
元町周辺に私娼宿が増え、県が禁令 |
1869(明治02)年01月18日 |
諸藩,外国船を買入れの為開港地方官の検査を受ける |
1869(明治02)年01月19日 |
外国人借庫改正規則制定 |
1869(明治02)年01月21日 |
政府,改所脇の海面埋立に着手 |
1869(明治02)年02月 |
政府,山手居留地に取締局を設置 |
1869(明治02)年02月 |
腸チフス発生で死亡者続出 |
1869(明治02)年02月 |
医師松山棟庵が「チビュス新論」刊行 |
1869(明治02)年02月 |
貨幣改所、通商司設置 |
1869(明治02)年02月05日 |
政府,2月5日布告・横浜貨幣改所設置 |
1869(明治02)年02月05日 |
政府,2月2日布告・東京貨幣改所設置 |
1869(明治02)年02月20日 |
政府,外国人の相対雇を禁止する |
1869(明治02)年02月22日 |
政府,各開港場に通商司設置(外国人の利益独占・金貨流出防止) |
1869(明治02)年02月29日 |
外人の鉄道敷設禁止・英人ボルトメンの出願不許可 |
1869(明治02)年03月 |
英人カンフルの京浜鉄道敷設出願却下となる |
1869(明治02)年03月 |
ローマ字入「横浜吉原五街道細見記」(全楽堂不二屋)刊行 |
1869(明治02)年03月 |
政府,外人居留地に公館を建て米国に貨す |
1869(明治02)年03月 |
内田清七,吉田橋北詰から野毛浦海面石崎まで埋立に着手 |
1869(明治02)年03月 |
小倉虎吉が理髪店開業(西洋髪刈所) |
1869(明治02)年03月 |
居留地148番に西洋理髪店開業 |
1869(明治02)年03月15日 |
商法司廃止される |
1869(明治02)年03月27日 |
天皇、戸塚本陣沢辺・保土ケ谷宿本陣に小休止 |
1869(明治02)年03月30日 |
政府、参与兼外国官副知事大隈重信に会計官副知事を兼任さす |
1869(明治02)年03月31日 |
速水堅曹、前橋藩直営生糸売込問屋を横浜に開店 |
1869(明治02)年04月 |
洲干の杉山弁天が姿見町に遷座し、厳島神社と改称 |
1869(明治02)年04月 |
県が吉田橋脇に高札場をたて布告を掲示する |
1869(明治02)年04月05日 |
政府、諸大名の東上に備え軍務官に東京・六郷川間巡視を命ず |
1869(明治02)年04月17日 |
参与寺島宗則・外国官副知事となる |
1869(明治02)年04月21日 |
政府,英・伊・仏・米・独と生糸・茶の増税約書に調印 |
1869(明治02)年04月23日 |
政府,ロンドン東洋銀行経由で英国より9分利付国債募集 |
1869(明治02)年05月 |
乗合馬車営業許可の出願者(屋号・成駒屋) |
1869(明治02)年05月 |
弁天武術講習所・英学校・修文館が合併(皇・漢・洋を教授) |
1869(明治02)年05月 |
平塚梅花が横浜八景「横浜八景詩画」を刊行 |
1869(明治02)年06月 |
馬車道に氷水・アイスクリーム店開業 |
1869(明治02)年06月 |
町田房造が馬車道に氷水店を開業(外人来店程度で営業不振) |
1869(明治02)年07月 |
政府が府県の職員数を定める(神奈川は定員増で220人) |
1869(明治02)年07月 |
横浜為替会社、通商会社設立 |
1869(明治02)年07月05日 |
京浜間通航蒸気船、気缶破裂で沈没(死者140人) |
1869(明治02)年07月23日 |
英国第2王子エジンバラ殿下が東亜遍歴途上に横浜着港 |
1869(明治02)年08月 |
「郷学校規則」が県から管下の町村に配布される |
1869(明治02)年08月 |
薩摩藩より30名の軍楽隊練習生派遣(軍楽伝習の為) |
1869(明治02)年08月 |
姿見町に外人相手の西洋割烹開業 |
1869(明治02)年08月 |
厳島神社遷座後境内官有地入札貸与され姿見町に改称 |
1869(明治02)年08月 |
長崎県人の大野谷蔵が純粋西洋割烹店「城陽亭」開業 |
1869(明治02)年08月 |
電信修技場を設置(電気工学を教育) |
1869(明治02)年09月 |
蚕糸改所設置 |
1869(明治02)年10月 |
吉田新田八丁縄手に県が粥たき出小屋設置(後救護所) |
1869(明治02)年10月01日 |
薩摩藩士等、英陸軍軍楽長から軍楽教授(妙香寺) |
1869(明治02)年10月14日 |
漢詩人の高柳天城(55才)没す |
1869(明治02)年11月 |
吉田橋改築(初の無橋脚鉄橋) |
1869(明治02)年11月10日 |
米国ボード伝道協会に宣教師D・Cグリーン来日 |
1869(明治02)年11月25日 |
神奈川裁判所・東京築地運上所間に電信開始 |
1869(明治02)年12月25日 |
本町通に電信局設置(東京・横浜間の通信開始) |
1850/1860/1870/1880/1890/1900/1910/1920/1930/1940/1950/1960/1970/1980/1990 |